今日はご聖和式から72日目、このブログも66を超えましたので、お父様がもしかしたら韓国語で語られているかも知れませんが祈祷文の中にまれに使われている초、という単語の独断の訳を絡めた記事を書きます。
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祈祷173
恨みを残し逝かれたイエス様の心情を慰労させてください
けさは、一九六五年の新年に入って初めて迎える安息日であると同時に、主の降臨、一九六五年目を迎える日です。数えきれないほどの多くの人々は、メシヤの誕生日を自分たちの気ままで決めて祝い、「メシヤがこの地に来て人類と共に、世界と共に、宇宙と共に、どのような因縁と価値を結実してくださったのか。」ということも分からず、その方の名声だけを記憶して、メシヤの誕生日を祝いました。
しかし、きょうこのように集まった少数の群れたちは、今から二千年前にあなたの広く高いみ旨と尊厳(=존엄)なる経綸(世の中を治めるために)によって送りだされたイエス様でありながら、哀れ(=가련)にも遮られ(=장애)、処罰(=처했던)される立場に置かれていた彼の事情に、心で同情しながら、その時にイスラエル民族が使命を果たせなかったことを,胸をいためて悲痛なる事情を考えないわけにはいきません。
この地上に、あなたの高貴(=귀)なる息子として生まれたその方は、天地創造の理念を破った(=저버린)アダムを、失って(=잃어버리다)しまった悲しみを解怨するため、送られた(=보내진)手本(=본)であったことを知るものです。彼を通してみ旨を成し遂げられ、彼を通して栄光をお受けになり、彼を通して幸福の世界を築こうとなさった望みを成就させるため、あなたがお送りになったメシヤであるイエス様は生まれるその日から楚楚(초초=いばらだらけ)たる姿でお生まれになりました。
数え切れない人々がメシヤを待ち望みましたが、実際にメシヤとして来られたその方が分かりませんでした。そのメシヤは独りで神様の心情を抱き、神様の望みを知って、模範的な生活の事柄を知っておられ、人知れず、みすぼらしい姿で現れ、悲惨(=불쌍)な運命の十字架に掛かり、涙と血を流し(=흘리)て亡くなられたということを考えるとき、私たちの先祖たちが足らなかったことを、私たちがこの時間に謝罪しないわけにはいきませんし、責任を負ったユダヤ教が使命を果たせず、神様に背いた罪悪を、私たちが謝罪しないわけにはいきません。
数え切れない歴代の私たちの先祖たちに血を流させた罪の歴史を、神様に背いてきた数多くの人類の罪悪を、私たちがもう一度、心深くたどって考え、悔い改める時間となるようにしてください。
お父様!あなたの悲しみを私たちが察しなければならず、イエス様の濡れ衣を着せられた事情に私たちが同情しなければならず、今まで血の路程を歩んできた彼の弟子たちの裏切りと、悲惨な事情を悟ることのできる私たちとならなければなりません。
歴史的な「恨」を抱き逝かれたイエス様を、個人的に慰労し、家庭的に慰労し、民族的に、国家的に、ひいては世界的に慰労してさしあげることが、きょうメシヤの誕生日を記念する全体的な目的であることを、私たちが忘却しないようにしてください。
二千年の歴史は過ぎていきました。その間、悲しい事情がどれほど多かったでしょうか?お父様も悲しく、イエス様も悲しく、聖霊も悲しく、キリスト教徒たちも悲しかったことを知るものです。
また、このように悲しかった恨みを解くための最後の最後の局面のひと日、すなわち皆が待ち望む審判のその日が、近づいてきているということを知っています。積もりに積もったお父様の恨みを解くために来られるメシヤを、再び迎えるべき立場にあるこの終わりの日の聖徒たちは、メシヤを待ち望んだイスラエル民族と同じよう(=같이)に、来られるメシヤに追われて仕える心と準備を備えられずにメシヤを待ち望むだけではいけませんので、私たち各自がこのようなことを自覚するようにしてくださいますことを懇切にお願い申し上げながら、すべてを主のみ名によってお祈り申し上げました。アーメン。
(一九六五・一・三)
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編集後記
「メシヤであるイエス様がわかりませんでした。」という祈祷文です。今の状態に良く似ています。
わかっていたら摂理も進みますが、その前の段階だったのでどんなにか、悔しくて、もどかしい思いをされたでしょうか?
私たちも申し訳ないですがその段階でしょう。
「초」は悄悄と訳されていましたが、悄悄の意味は「力なく、弱弱しい」という意味のようでしたので、「楚(いばら)」という表現のほうが、迫害や冷遇を受けられたイエス様にはふさわしい表現ではないか?と思い訳しました。
「楚」は普通「そ」と読みますが「いばら」と読むなどと初めて知りました。
ですから「楚」は二本の木の下に足と言う意味の字の構成になっております。
二本の木は「生命の木」、「善悪を知る木」のしたに足ですから、まさに「楚」はメシヤを指している文字なのではなかろうか?という推測の元、この名前にさせていただきました。
ですから「楚と鶴」という命名は「真のご父母様というイメージ」で名前をつけております。だれも話題にしませんが・・・。(寂)
今日の礼拝で「お父様は貴方の横に来ていつも協助しているよ。」というメッセージがありました。涙がいっぱい出ました。
カムサハムニダ、アージュ。
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