祈祷について、祈祷とは?、何で祈祷なのか?どのように? | 楚と鶴

楚と鶴

「楚」とは北斜面(日が当たらない場所)で咲く棘のある花のことです。
文鮮明先生のすばらしいみ言葉を掲載していきます。

ここ、2日間、『「自分の罪感」の確立をすることが重要』というテーマで記しました。そこで「どうやって、それを乗り越えていくのか?」という素朴な疑問が出てくる、と思いましたのでここにお父様の貴重な解決策を記しました。

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「天一国時代の祈祷」より抜粋、まとめ


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1.祈祷は「何のために」するのか?

祈祷」は肉身の力よりも強い心の力を補充するためにするものです。「祈祷」は愛の実践です。神様と対話することで愛の力が刺激を受け、より強くなっていくのです。私たちにも愛の力が備えられているからです。

 神様からより大きな愛を自分や家庭に伝授していただきたいのであれば、毎日のようにしなければならないものです。

 

 だれでも横的なことに時間をたくさん消耗すれば、縦的な概念が弱くなるのです。

 それゆえに、横的な時間と縦的な時間と分けておかなければならないのです。これを明確にしておかなければなりません。

 それで、祈祷をし、神様と対話することで、縦的な基準がいつも横的な基準に影響を及ぼすようにしなければならないのです。

(※上記は↓下記内容まとめ)

 愛の心は自分よりも大きい対象を訪ねようとするのです。

そのように大きなものを求めていく所に天が臨むのです。

 自分の家庭を守るためには、氏族と一つにならなければなりません。氏族が維持されるためには、国家と一つにならなければならず、国家が維持されるためには、世界と一つにならなければなりません。神様を中心として、地上天国、天上天国も一つにならなければならないのです。

 ところが、愛がなければ、それらすべては一つになることができません。ですから、毎日のように、祈祷をこのようにしなければなりません

「神様、わが家に臨んでくださいませ!」と言うべきだというのです。

「なぜか?」と言えば「神様から大きな愛を私たちの家庭に伝授されるためです」と言うのです。そのように祈祷しなければなりません。

(一九九七・一〇・六)

 宗教の役割は、人間の心にポンプで力を加えてあげようということです。祈祷は何のためにするのですか? 肉身の力よりも強い心の力を補充するためです。その心の力が補充されるためには、理念がなければならないのです、理念が。自分が、ある中心と一つになったという確固たる信念がなければなりません。(一九六四・一〇・六)


 祈祷が必要だというのはどういう意味でしょうか。だれでも横的なことに時間をたくさん消耗すれば、縦的な概念が弱くなるのです。それゆえに、そのように分けておかなければならないのです。これを明確にしておかなければなりません。それで、縦的な基準がいつも横的な基準に影響を及ぼすようにしなければならないのです。(一九八九・一・一七)

 

  祈祷は、愛を実践するために必要です。絶えず、愛を実践することができる刺激を受けるために祈祷が必要なのです。(一九八一・三・二九)


2.「無」の人格(無限の価値観)を備えているので、祈祷によって「熱意」をはぐくみなさい

  人間は有限な存在です。しかし、無限な次元にどのように入っていくことができるかということが問題です。このように有限な人間が無限の次元に入っていくことができるためには、固着した意識観念をもっていてはいけません。

  それゆえ、仏教を信じる人々は、座禅を通して「無の境地」に入っていこうとするのです。
 「人間は何か」ということを考える前に、まず人間の心が何であるか」を考えなければなりません。自分が何かということよりも、心が何かということがもっと大きな問題です。

 「私」は、心と体でできています。

 では、体を離してしまった心はどのようなものでしょうか。

 「それがどのようなものである」という認識が自分で意識できるものであるならば、それは完全なものではありません。

 

  無我の境地の純粋な立場で意識されたものであってこそ「完全」なのです。そのような超自我的な境地に入らなければなりません。

 そのような境地に入っていくことができる人は、予言をすることができるのであり、未来を透視することができます。

  そのような人は堕落した立場」に置いておいても、自ら飛び出すことができます。

  そのような人格があるのです

  皆さんがそこに到達するためには、熱意がなければいけません。「新しい熱意」がなければならないのです。

 ですから、そのような熱意を育てなければなりません。それは、何によって育まれるのでしょうか。祈祷によって育まれるのです。

(一九七〇・一一・二二)


3、祈祷の威力

    いつでも、難しい問題があるときは、祈祷をして解決していかなければなりません。

  その祈祷は、神様の心情的基準を中心として関係を結ぶのです。真の意味で国を心配し、神様を心配する心から祈祷をするようになれば、神様がすべての問題を解決してくださるようになっています。(一九七〇・八・一一)

祈祷の力は偉大なのです。

  涙を流しながら夜を明かして祈祷すれば、大きな解決への足がかりができたように感じることができる偉大な力があります。

  (一九八九・七・九)

だれでも祈祷生活をするようになると、大きくて偉大な力が訪ねて来るのです。ですから、祈祷する人の目はその力によって肉界だけでなく、霊界までも透視することができるのです

  (一九六七・五・二一)

どれほど祈祷の力が大きいかということを知らなければなりません。

  自分を含む万人が祈祷して、無限な世界である霊界を動かして動員することができるというのは偉大なことです。

  ですから、祈祷というものは「方位磁石」のような作用をするのです。そのような力をもっています。それゆえ、皆さんが成就する」と信じて祈祷すれば、そのまま成就するようになるのを見ることができるでしょう。

  (一九七五・九・二一)

 毎朝これを祈祷するとき、神様と自分の心をつなげなければなりません。それで、神様と対話するのです。そのように対話しながら何でも聞いてみると、すべて教えてくださるのです。方向感覚を失わないようにするには、東がどこなのかを知らなければなりません。精神を集中して祈祷すれば、すべて分かるようになるのです。ですから、「心田」、心の畑を開発しなければならないのです。心田開発」このような言葉が必要です。

  (一九九五・一〇・三〇)

4.祈祷するときの姿勢

   ① 祈祷するときの姿勢はどのようにするのが望ましいでしょうか。

 できるだけひざまずいて座って祈祷するのがいちばん良いのです

  そのように体を拘束しなければなりません。それで、体の苦痛と不

 便さを克服することができる深刻な何かがなければならないのです。

 そうしてこそ天の側の人となり、その祈りが神様の前に届くのです。

 イエス様も夜を徹して祈祷し、過去に天の仕事をした人々も祈祷せず

 しては大きなことはできなかったのです。そのような姿勢で祈祷し

 た後に、その祈祷の内容が成就しうる時を待つ心がなければならない

 のです。皆さんは祈祷をしておいてすべて忘れてしまうでしょう。そ

 れではいけません。

(一九七九・四・一五)

②前に先生は、ひざまずいて祈祷すれば十二時間が普通です、十二時間。

 この手がすべて凝り固まるのです。タコができるのです。それで祈祷の場は、数年間、涙で濡れていました。皆さんがレスリングをやって汗を流す以上に、そのような祈祷をしたのです。綿入れのパジとチョゴリに汗がしみ込んで、絞れば汗の滴が落ちるほどに祈祷しました。だれもできないことをしようとするので、そのようなことをせざるをえなかったのです。

 だれでもそのような中で「これだ!」と言うことのできる何かを発見すれば、それはどれはどうれしいでしょうか。そのように猛烈な人が「後に、将来よくしてあげよう!」という言葉を聞いて離れると思いますか? 決死的だったのです。

(一九七九・一二・二四)


③ 祈祷するとき心の姿勢を正さなければなりません。どの方向

  に祈祷すべきかを知って、祈祷しなければなりません。山にもひな

  たがあり、日陰があり、半ばひなた、半ば日陰があります。そのよ

  うな場所よって方向が変わるのです。自分の心がどこを好むのかを

  知らなければなりません。その心が主体です。「ああ、あそこ

  だ!あそこに行かなければ」という気持ちに従って祈祷すると、

  祈祷うまくいき、試練も受けないのです。

「祈祷」についてまとめてみました。

私も個人的に良いまとめになり、良い発見になりました。

これで、よく祈れるようになれます。

「祈祷」についてもう少し貴重なみ言葉がありますので次の機会に記します。

カムサハムニダ、アージュ。



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編集後記