けいちゃん(平山 敬三)のブログ -2ページ目

けいちゃん(平山 敬三)のブログ

京都教育大学の附属幼稚園~高校から、慶應義塾大学にお世話になりました。理工学部で応用化学を専攻し、当時、世界一の化学メーカーだったデュポンに長らくお世話になりました。芸術から先端科学まで、すべて、大好きです。ありがとう。

京都五山三位の「東福寺」の北西部で、我が家のある京都市東山区東橋詰町の蒲鉾の「ヨシモト」さんの奥さんと偶然、会いました。

私の両親、兄嫁、「ヨシモト」のご主人等の情報交換をしました。

「東橋詰町」の皆さんは、家族のようです。

梅が満開で、綺麗に、咲いていました。

ありがとうございます。
天得院  

天得院は、万松山と号し、南北朝時代の正平年間(1346~1370年)に、東福寺第三十世住持 無夢一清(むむいっせい)禅師が開創した東福寺五塔頭のひとつです。

その後は、衰微していましたが、中興 大機慧雄(だいきえゆう)禅師により再興されました。
慶長19年(1614年)に東福寺第二二七世 文英清韓(ぶんえいせいかん)長老が住菴となり、豊臣秀吉や秀頼の五山の学僧として手厚い扱いを受けていました。

そして、秀頼の請に応じ、方広寺の鐘銘を撰文することになりました。

この鐘銘中に「国家安康君臣豊楽」の文字があり、家康を引き裂き豊臣家の繁栄を願うものとして家康に難詰され、天得院は取り壊されました。

堂宇は、その後、天明9年(1789年)に再建され、明治元年(1868年)には、山内の塔頭、本成寺を合併し、現在に至っています。

現在墓地には、普円国師の無縫塔をはじめ、文英清韓長老、東福寺二四二世南宗祖辰和尚等の墓も現存しています。

桃山時代に作庭されたとされる庭園は、昭和43年中根金作師の指導により一部補修され、現在に至っています。

びっしりと杉苔に覆われた枯山水の庭に、凜と咲く桔梗の青や白の花が美しく、桔梗の寺として知られるようになりました。

一昨日、京都の京都五山四位の「東福寺」の五大塔頭の一つ、「天得院」に参りました。

また、桔梗の時期にお参りします。

ありがとうございます。
















摂政九條道家が,奈良における最大の寺院である東大寺に比べ,また奈良で最も盛大を極めた興福寺になぞらえようとの念願で,「東」と「福」の字を取り,京都最大の大伽藍を造営したのが慧日(えにち)山東福寺です。

嘉禎2年 (1236年)より建長7年(1255年)まで実に19年を費やして完成しました。

イメージ図工事半ばの寛元元年(1243年)には聖一(しょういち)国師を開山に仰ぎ,まず天台・真言・禅の各宗兼学の堂塔を完備しましたが,元応元年(1319年)、建武元年(1334年)、延元元年(1336年)と相次ぐ火災のために大部分を焼失しました。

延元元年8月の被災後4ヶ月目には早くも復興に着手し,貞和3年(1346年)6月には前関白一条経道により仏殿の上棟が行われ,延元の火災以降実に20余年を経て,再び偉観を誇ることになりました。

建武被災の直前にはすでに京都五山の中に列せられていましたから,再建後の東福寺は完全な禅宗寺院としての寺観を整えることとなりました。

 仏殿本尊の釈迦仏像は15m,左右の観音・弥勒両菩薩像は7.5mで,新大仏寺の名で喧伝され,足利義持・豊臣秀吉・徳川家康らによって保護修理も加えられ,東福寺は永く京都最大の禅苑としての面目を伝え,兵火を受けることなく明治に至りました。

 明治14年12月に,惜しくも仏殿・法堂(はっとう),方丈,庫裡(くり)を焼失しました。

その後,大正6年(1917年)より本堂(仏殿兼法堂)の再建に着工,昭和9年(1934年)に落成。明治23年(1890年)に方丈,同43(1910)年に庫裡も再建され,鎌倉・室町時代からの重要な古建築に伍して,現代木造建築物の精粋を遺憾なく発揮しています。

また,開山国師の頂相,画聖兆殿司(ちょうでんす,明兆)筆の禅画など,鎌倉・室町期の国宝・重要文化財は夥しい数にのぼっています。

一昨日、京都の「東福寺」に参ってきました。

京都五山四位の禅寺です。

「伽藍面」とも、言われています。

ありがとうございます。
















東庭のこと

本庭の拝観は、先ず庫裡から進んでいく。程なくして庫裡と方丈を結ぶ渡廊下があり、そこで大抵の拝観者は左方向を見てハッとするのである。

左には方丈の南庭が広がり、そこに存在する大きな石を用いた石組に先ず目が引かれてしまうが、その反対側に目を向けると、そこに広がる狭い空間の中には、反対の南側に見えている空間とは大きく異なる、まさに南側に見えてくる空間が「動」な構成だとすれば、まさに徹底的に省略した「静」の世界を表すかのような構成となっている。

東庭の表しているものは星座の「北斗七星」である。

それを円柱、白川砂、苔、背後の二重生垣のみによって表現している。

北斗七星を表す円柱は、山内にある「東司」で使用されていた礎石で、東司の解体修理をした際に、余材として出てきたものである。

早い話が廃材であるが、禅の世界では「一切の無駄をしない」という厳格な教えがあり、そこからこの材料を使用して欲しいという、当時の執事長であった爾以三師からの要望を受けて、円柱を天空に浮かぶ星として表現したのである。

この円柱を使うという手法は、明治時代~昭和初期にかけて、京都を中心にして活躍した第七代小川治兵衛の有名である。

小川治兵衛は、三条大橋や五条大橋で使われていた橋脚を払い下げ、それを使って平安神宮に「臥龍橋」と称して、池に沢飛石のような形で据え、それがあたかも龍の姿に見えてくる面白さを、円柱を使って表現している。

さらに池の護岸やまた陸地部分に、伝統的な石組工法と同様に三本の円柱によって石組をするなど、当時としては画期的な手法を考え出して意匠しているのである。

北斗七星の写真これはみれいは実測調査によって詳細に調べていたことから、東福寺で円柱を使用して欲しいという願いがあった時は、その使用方法に相当な産みの苦しみがあったといってよいであろう。

しかしそこは、多数の古庭園を実測調査によって得た厖大な情報と、さらに243庭の古庭園を取り上げた「日本庭園史図鑑 全26巻」を上梓した直後だけに、さまざまな古文献などを読破した結果、日本庭園と四神相応の繋がりが深いことを知り、そこから星座を用いることによって、先ず日本庭園史上初めての星座表現した手法となったのである。

しかも星は必ず東から昇っていくこと、そして北斗七星は四神相応と深い関係があること、さらに小川治兵衛のおこなった伝統的な石組手法とは異なる表現方法で用いることができたことなど、すべてにおいて新しい手法を盛り込めたことは、まさに三玲の蓄積してきた庭園に対しての、新しい提示であり、しかもそれがすべて伝統に則った範囲の中で構成されたということも、まさに三玲らしい設計系になったといってよいであろう。

本庭の七石の高さは、高・中・低のバランスを考えたリズミカルな構成となっている。

北斗七星自体の星の明るさは、ほぼ同等の明るさであるために、ここで表現されたことは、実際の星の明るさによる高さの違いなどではない。

逆に考えると、三玲の設計の中で、そのような具象的な方法を用いることは考えられず、まさに意匠的な創意工夫によって生み出されたと考えてよい。

背後には、二重生垣によって書院との仕切りを設けている。この二重生垣の手法も、大徳寺本坊庭園、孤篷庵方丈前庭などに用いられている手法が取り入れられ、ここでも古典的な構成を用いていることがわかる。

日本庭園の中において、星座表現という大胆な構成が取り入れられたが、これも単なるデザイン的なことや、思いつきだけでおこなったのではなく、伝統を知り尽くした、とても思慮深いところから生まれた、まさに新しい伝統の始まりといってよいのではないだろうか。

一昨日、東福寺の方丈庭園の東庭に参りました。

北斗七星を模した東庭です。

私は、この簡素な趣が好きです。

ありがとうございます。




北庭のこと

勅使門から方丈に向けて敷きつめられていた切石を再利用してできあがったのが北庭の小市松模様の庭園である。

まさに西庭の大市松を受けてさらに小さな姿となり、そして東北方向の谷に消えていくという表現方法である。

本庭の最初の部分は、西庭の市松を受け継いでいるために、ほぼ正確な市松で配置されているが、程なくしてそれが崩れていき、そして最後はポツン、ポツンと一石ずつ配しながら消えていくという配置構成になっている。

この最後に一つずつになるような所は現在のような苔ではなく、白川砂内におかれていたことが、やはり作庭直後の写真を見ると判る。

しかもこの白川砂と苔との仕切の線が、三玲が得意とした州浜状の曲線が用いられており、この辺りのコントラストも考えたうえでの設計であったことがわかる。

111

このようなヒントを思いついたのは、三玲自身が、学生時代に日本画の勉強をしていたことが大いに役立っている。

絵画の世界では、境目の部分をぼかすことによって、多彩な表現を試みるが、庭園の世界では、ボカシという表現方法は見当たらないのである。

ここに着目できたのも、三玲が絵画の分野で勉強したことが、大いに役だったのである。

さらに、東福寺本坊庭園を設計する直前まで、日本全国の古庭園実測調査大きな要因といえる。

現状においては、この州浜状に区切られた苔と白川砂の線は、完全に苔に覆い尽くされている。

日本庭園で使用する地衣類は、やはり苔が抜きんでた美しさをほこるが、苔の生育条件はとても厳しく、維持するだけでも大変な労力が必要である。

ところが東福寺本坊においては、ちょうど真横に谷があって川が流れており、苔の生育に適した空中水分が得られることから、白川砂内にどんどん苔が繁茂していき、その結果、現在のような状態になっている事を付記しておく。

しかしながら、現在の情況も大変美しく、苔の中に散らばる板石の風情も捨てがたいものがある。

竣工した当初の写真や、設計図、三玲の書き残したものなどは、資料としてしっかりと残されているので、現状がどのように変化していても、ただちに竣工時の姿に戻すことは可能である。
そこで現状の苔に覆われた姿を維持していくことも良いなのかも知れないと思っている。

私が、東福寺の方丈庭園の中でも、一番、好きな北庭です。

市松模様が素敵なお庭です。

一昨日、参りました。

安上打作法で、この北庭で、瞑想しました。

ありがとうございます。


西庭(井田の庭)

西庭(井田の庭)について

西庭の大市松模様「井田の庭」は、日本古来から伝えられてきた伝統的な市松模様を、サツキの刈込と葛石の使用によって表現した。

この西庭の意匠は、北庭と同様に、この本坊内に使われていた材料で、敷石の縁石(カズラ石)を再使用してできあがった意匠である。

カズラ石や板石は、素材は天然であっても、人が細工してできた材料であり、しかも直線であるために、敷石などの歩く場所などに使う際には好適な材料であるが、自然の山を模した築山や石組、樹木などを植えたところに使うのには、難しいというよりも、通常の庭造りでは考えられない材料であるといってよい。

それでも使用しなくてはならなかったことから考え抜いた末に辿り着いた答えが「市松」だったのである。

市松は日本の伝統的な紋様であり、桂離宮内の松琴亭の襖や床に使用され、また修学院離宮などの茶席の腰張りに使用されたりなど、雅な文化の中において使用されていたことがわかる。

また東福寺山内においても、通天橋を渡りきった奥に普門院(開山堂)内の枯山水部分に、綺麗に描かれた市松の砂紋があり、これを三玲は昭和13年2月に実測していることから、この砂紋による市松の美にも引かれていたことが、彼の記述したものに残されている。

しかも普門院内の砂紋の描かれている地割を見てみると、明らかに西庭と北庭部分の地割との関連性があり、ちょうど設計に取りかかる直前でもあったために、普門院の市松砂紋からの影響が最も大きかったといえるのではないだろうか。

しかも普門院は、東福寺の開祖である円爾弁圓師であるために、より一層、本坊内においての作庭に用いたと考えるのが本筋ではないだろうか。

111

ここの地割も斜線上に市松を組み、北側の小市松模様に連続して繋がっていくことを意図して設計されていることがわかる。

それをサツキの刈込と白川砂との、はっきりとした色のコントラストを持って表現し、さらに作庭された当時の写真を見てみると、サツキの高さが縁石から3cmほどしか出ていないために、現在とは異なって、大きな市松模様に見えていたのである。

そしてそれを斜線上に北側に結びつけていることから、現在のサツキが高くなってしまったものと比較すると、大きく異なっていることがわかる。

またこの西庭の南西の角に自然石で三尊石組があるが、これは東庭の北斗七星による七石、京都五山の五つの山と組み合わせると「七五三」になっていることがわかる。

しかも、何れも素材異なる七五三という手法も、それまでの古典庭園にはない手法であるために、七五三表現でさえも、三玲による新しい提示があることがおもしろい。

そしてこの事に関しては、彼は一切の記述をしていないために、まさに現場と図面を見ることによって初めて気がつくように配置されており、庭園とは単に観賞するだけではなく、まさに思惟することを求めていることが、本庭が、単にデザインだけを追い求めた新しい庭作りをするという単純な形態ではない、まさに禅的な意味合いを深く持たせた庭園であることがよくわかる。

さつきの大市松模様が印象的である。

ありがとうございます。




南庭のこと

特徴的な石組のこと

方丈の南側であるが、ここでは日本庭園における定型的な表現方法である、蓬莱神仙思想を中心とした意匠形態となっている。

蓬莱、瀛洲、壺梁、方丈の四神仙島を石だけの構成による四つの意匠で表現した。

その中の三神仙島(蓬莱、瀛洲、壺梁)には、6mほどの長い石を、立石とのバランスをとりながら横に寝かせて表現している。

このような石の扱い方は、古庭園における意匠では、ほとんど例がない。

三玲自身が戦前に実測した庭園の中には、そのような庭園は含まれていなかった。

よって、この長石を使用することによって、極度なまでの立石を、この大きな横石によってバランスを保つようにしたところが、従来までの石組手法とは異なる新たな提案であった。

これによって、三玲自身の新しい石組手法が確立されたといってよいであろう。

それほど彼にとってこの石組のもたらした意味は大きかったのである。

彼が古庭園の中に大きな横石が使用されている例を知ったのは戦後のことで、この時の彼の心中は、やはり時代の先端を行く作庭家がいたことに驚きを持ったであろうし、また知らなかったことによる新しい自身の発案が、やはり先端的な造形感覚を持っているのだということを、改めて大いなる自信となって胸中に刻まれたのではないかと考えられることも、あらためて付記しておく。

一昨日、「東福寺」に行ってきました。

方丈庭園は、南庭、西庭、北庭、東庭の順番で観ました。

南庭は、勅使門、築山等が印象的でした。

作庭家の重森美玲の傑作です。

ありがとうございます。









南庭のこと

特徴的な石組のこと

方丈の南側であるが、ここでは日本庭園における定型的な表現方法である、蓬莱神仙思想を中心とした意匠形態となっている。

蓬莱、瀛洲、壺梁、方丈の四神仙島を石だけの構成による四つの意匠で表現した。

その中の三神仙島(蓬莱、瀛洲、壺梁)には、6mほどの長い石を、立石とのバランスをとりながら横に寝かせて表現している。

このような石の扱い方は、古庭園における意匠では、ほとんど例がない。

三玲自身が戦前に実測した庭園の中には、そのような庭園は含まれていなかった。

よって、この長石を使用することによって、極度なまでの立石を、この大きな横石によってバランスを保つようにしたところが、従来までの石組手法とは異なる新たな提案であった。

これによって、三玲自身の新しい石組手法が確立されたといってよいであろう。

それほど彼にとってこの石組のもたらした意味は大きかったのである。

彼が古庭園の中に大きな横石が使用されている例を知ったのは戦後のことで、この時の彼の心中は、やはり時代の先端を行く作庭家がいたことに驚きを持ったであろうし、また知らなかったことによる新しい自身の発案が、やはり先端的な造形感覚を持っているのだということを、改めて大いなる自信となって胸中に刻まれたのではないかと考えられることも、あらためて付記しておく。

一昨日、「東福寺」に行ってきました。

方丈庭園は、南庭、西庭、北庭、東庭の順番で観ました。

南庭は、勅使門、築山等が印象的でした。

作庭家の重森美玲の傑作です。

ありがとうございます。