ゴンのブログ

ゴンのブログ

ブログの説明を入力します。

Amebaでブログを始めよう!

当日の決行手順、様々な伝説と共に謎なのが


”動機”


本能寺の変においての一番の謎は動機だろう。

なぜ決行に及んだのか?

以前から命をかけて自分と戦ってくれている家臣達、一族郎党を犠牲にするのをわかっていて起こしたのか?


荒木村重、松永久秀など謀反の末路は知っているはず。

それでもなぜあの事件を起こしてしまったのか?


失敗を想定していなかったというのはあまりにも滑稽すぎる。

味方をしてくれるであろう武将も少ないことはわかっていたはず。


よく言われている、信長から事有る毎に足蹴にされていたから、とか中国筋に行って秀吉の下につくのが嫌だったから、とか現代人が喧嘩をふっかけるような単純な事では絶対にない。


何しろ家臣とその家族の命を背負っているのだから。






当夜、信長は軍勢も連れずに京都の寺に泊まっていた。

当然、市中に入るにはそれなりの門所、関所などの備えはあったはず。

何かあればどんな時間であろうと本能寺まで知らせが行ったはずである。


真夜中は静寂に包まれていたはず。

当時の人は神経をとがらせていたはずだから、たとえ寝ていようと夜中に軍勢が近づけば

ぱっと目が覚め、瞬時に談合し、馬を走らせたはず。

それも年を入れて2,3人または数箇所に伝令を飛ばしたはず。


それが信長に、本能寺になぜ届かなかったのか??

これはとても疑問だった。


そんなシステムは光秀も良く知っていたから当然手を打ったのだろうと言われればそれまでだが、

その具体的な話は伝わっていない。

この奇襲が成功したのならばこの手を打った何かが伝わって当然だと思う。


本能寺に伝われば信長がまず逃げ、、寺の人にも皆逃げるように司令したはず。

それが襲撃されてから対処したというのはあまりにも不自然。


ということは・・・


言われてみれば当然だが、光秀の軍勢がその日京都に入ることは信長は知っていた。

そしてそれは信長の指示だった。

もちろん、他の人を殺すために!!


そう、私はそれは思いつかなかった。

上記のようになんらかの手違い、あるいは光秀の対処で本能寺には知らせが届かなかった。

ずーーーーーーーーっとそうだと思っていた。


元々、他の人間を殺すためにその日、光秀が、京都に入る予定だった。

だから信長は起きなかったとう発想は全く私には思いつかなかった。




本能寺の変で未だに伝説になっているのが、秀吉の中国大返しと家康の伊賀越え。


この事件だけこんな伝説が2つも残ってるっていうのも不自然だなぁと感じていた。

ここにも何か隠したい事実があるはず。

それもかなり重要な事実。

あるいは誰にも知られてはいけない事実。


それが秀吉と家康各々の事なのか?

それとも二人がつるんでの何か?


素人がそんな疑問を調べられるはずもなく、いつか誰か研究解明して欲しいなぁ。

きっと歴史がひっくり返る位の何かがあるはずだ!!


そんな事をずっと思っていた。