就活終わってから無気力状態。ずっと家にいて、寝ているのか起きているのかわからないような状態でベッドに寝転がっていると8時間ぐらいたっている。風呂も入らず。
こんな状態で人と会うとなんかテンションあまりに高い人みたいになってしまう。けど脳みそ回ってないのであんま面白いこと言えない。つらい。
やっぱり日常に何かしらの目的意識が必要なのだと思う。気ままにぶらぶら好きなことをする、という生活を夢描いていたがそれをしようとすると何もしない人間になってしまうのは大学生活の前半で立証済みのはず。このままいくとあの生活の二の舞だ。
研究、とか落語、とかだとだめだ。何か結果が出る競争の世界に入らないと自分は身が入らないのだということを再認識。
思うに、「劣等感中毒」なんだと思う。自分に自信があって、余裕がある人に憧れていた。結果を出せば自分に自信が持てて、何をしても自分を肯定できる、そんな人になれるんじゃないかと20年間思い続けてきたがどんな結果を残してもそうじゃなかった。目標を見失った僕の頭は、ぐるぐる回ってさまようんじゃなく活動を停止して、エネルギーを生産するのをやめてしまうみたいだ。何か数字で表される、他人から褒められるような目標があって、そこに向けて行動するというモチベーションがないと自分は行動できないのではないか?そうすると、自分は自分のあこがれるアーティスティックな人間にはなれないんじゃないか?彼らは目的意識なんてない。ただ自分を、感情を、作品となりうるようなぼくには想像もついていないような何かを、”表現”しているだけで満たされる。落研のみんなを見ていると思う。彼らは自分の表現で笑いを取ることをただ求めている。満たされている。僕は笑いを取ることを通して他人から見る自分の価値が上がることを本心では求めている。気がする。だから僕はあの活動にのめりこむことができなかったし、ついぞ億劫さすら感じている(いた)。”これが何に繋がるのか?”この考え方はビジネスでは有効だし、就職活動では役に立つのだろう。でも表現活動ではこの感情はモチベーションをやすりみたいにゴリゴリ削っていく。でも僕はずっと前者のような人間を嫌悪してきた。”有効でなくて何が悪いのか?無駄なものが他人の心に刺さるのが美しいんじゃないか?”と声高に叫び続けてきた(心の中でね)。でもこの一文に象徴されるように、自分は結局”他人の心に刺さらないと”無駄なものに自分を投じないのではないか。生産性はないが豊かな無駄に自分を投じるだけでは何も満足していないんじゃないか?そうは思いたくないけれども、今の自分の生活がそう問いかけてくる。ただ他人からの反響を何も期待していないものでも自分が熱中できる”無駄なもの”はあって、それがこのブログやラジオだ。これがどういう意味を持つのか?今のところは自意識の化け物(俺ガイル懐かしい)の自分語りが大好きという部分に刺さっただけなのではないかと考えるにとどめているが、もしかしたら、音楽やお笑いや物語など、自分が生み出したものも自分の一部だと、自分語りの一部なんだと思えるような教養・眼を身に着けることができれば自分にも表現者としての道が開け、これからの一年半も変わっていくんじゃないか。そんな希望的観測でこの長文を締めくくることにしようと思うが、たぶん俺は明日も何もしない。
だって友人に勇気をもらった5日前も、先生に助言してもらった先週末も、動いた心とは裏腹に、おれは行動に移さなかったんだから。
(そんなことばっかくりかえしているよなぁ。)