ジャガイモを薄く切る。
5mm前後が、個人的好み。
芽の部分は、
輪切りにしてから取り除くと、楽ちんな気がする。
フライパンで、油をしかずに焼く。
軽く焦げ目がつく程度に、両面。
人参、ピーマン、しめじ、たまねぎ、アスパラ・・・
微妙に残っちゃった野菜も、気分次第で同様に。
食べる直前に塩とコショウを好みでつけて食べる。
もちろん、焼きたてのうちに。
今の、
2008年冬の、ごちそう。
ジャガイモを薄く切る。
5mm前後が、個人的好み。
芽の部分は、
輪切りにしてから取り除くと、楽ちんな気がする。
フライパンで、油をしかずに焼く。
軽く焦げ目がつく程度に、両面。
人参、ピーマン、しめじ、たまねぎ、アスパラ・・・
微妙に残っちゃった野菜も、気分次第で同様に。
食べる直前に塩とコショウを好みでつけて食べる。
もちろん、焼きたてのうちに。
今の、
2008年冬の、ごちそう。
受けようかと思い立ち、
かかりつけの先生に相談したところ
やんわりと、しっかりと反対された。
先生が私の視力向上を阻止するメリットも思い当たらなかったし、
とても善意を感じた。
まあ、色んな考え方があるだろうし、
このブログ上で
レーシック賛成! レーシック反対!とか
どちらの主張も述べる気はないし、
この書き込みから勝手に私の思いを判断されても困っちゃう。
当人が決めりゃあいい。
ただ、ともだちと会って直接聞かれたら、
色々と話をするだろうけども。
青臭い夢をもった。
運よく、夢の中に飛び込んでみて、
現場にいたら現実との距離を縮めたいと思うようになり、夢から舞い戻った。
現実の、時間の流れの遅さにびっくりした。
まだまだかかると思った。
正直、とどこおったまま・・・ ということもあり得ると思った。
さわいで何とかできたらいい と試してみたけど
いいさわぎ方はなかなか思いつかないままだった。
待つ という選択肢もでてきた。
待ってみるのも悪くなかったけれど、ただ待っていたくはない。
どうすればいいか悩んだ。
夢を、改めて噛み砕いてみた。
とくに自分以外のヒトの感覚から、
一理も二理もある ( こんな表現はなさそうだけど ) 視点をいくつも感じることになった。
同時に、なんだか何が目的だか理解できない
まばゆい夢の横行を知り、
それもいいんだ と分かった。
たぶん、
” 何を考えてるか分からないヤツ ” になった。
伝えさせてもらおうと試みたこともあった。 けど、
持てば高い確率でいい気分になれる視点であるわけでもないし、
ときには相手の生き方・考え方を思いきり否定しかねないと判断したこともあり
話す機会を選んだ。
バカにしてたり、悪気があったわけじゃない。
ただ、心のシャッターを下ろされるのはさびしく、そんなことは少ない方がよかったから。
否定するってことは、
自分が否定しているものと同類じゃん、 と思った。
いつも、
ほんとにそうなんだろうか? と問いなおし続けてみてる。
今のところ、
最良だと思えている。
夢は、夢から飛び出した頃よりずいぶん小型に改造された。
原動力になるものは複数に増え、素材も多様に、
効果も、集中するようになってる気がする。
時間が経ち、拡散したから小さくなってるのとは違う、
よりよいカタチを求め続けてみた故の小型化。
あきらめない / あきらめた
そんなシンプルに割り切るばかりが方法じゃないでしょう。
妙な器に盛られていようとも
やさしさを土台にした意味自体は、変わらないと思う。
ときどきキレイな器に盛られている
やらしさを土台にした意味は、雰囲気で読み取って。
自分の考えは、休まずどんどん更新していくのに。
「 そんなの、頼んでない 」 と一蹴されたりしそうで
報われることが少なさそうな、 小っちゃな良心。
まだ大切にできてますか?
主に一階で暮らす祖母は
私が二階に上がろうとすると、いつも言うセリフがある。
「 二階に行っちゃうの?」
たぶん本人は、大して意識してないんだろうけど
孫はいつも きゅん としてますよ
小さな浪費を積み重ねてみて、 どうですか?
例えば
諸々におカネを使うことで、それぞれに得られる喜び。
その喜びを” だいたいこの位の喜びかな ”って 予想できるようになると
そして、その予想の精度が上がってきて
めったなことじゃあ
その想定の域を超えないようになると
飽きませんか?
モノへの気持ちが
どんなにヒトから説明されても自分が初見で感じた価値と変わらないのと比べて
ナマのものは
ものすごいものが多い。
ただ、ヒトを介した類のシアワセは
ほぼ全て周囲のヒトが運んでくれているように思う。
誰かに言葉で聞くより
態度や取り組みから自発的に感じて飲み込めたこと。
そんな感覚のチャンネルも。
ヘリクツと思われてもしかたない、
ちょっと説明過多かもしれない直観。