ロシアのショスタコヴィッチが創った音楽に

ザ・セカンドワルツ』という優雅な曲があります。

 

ロシアの社交界で何度も使われた名曲だそうです。

 

実は、この曲は映画『アンナ・カレーニナ』の

社交界でのダンスシーンにも挿入されています。

 

ヒロインのアンナに扮したキーラ・ナイトレイ

エレガントさに見とれてしまいますが、

原作のトルストイ原作の同名小説を読んだ時に、

イメージしていた女性像とほぼ同じ容姿で

映画に登場したのには、驚いてしまいました。

 

活字の世界で私が想像してきたアンナに

凄く似た女性がスクリーンに現われたのですから、

偶然なこともあるものですね。世も不思議!

 

余談はさておき、このショスタコヴィッチの音楽に

乗った社交ダンスのシーン。華やかでエレガント

なのですが、別の面ものぞけます。

 

それは、不倫の匂いのするアンナと青年士官の

ヴロンスキーが手に手をとって踊るシーンです。

 

周囲の貴族連中は、美男美女のカップル誕生に

羨望と嫉妬の視線を二人に投げかけます。

 

そして、噂をし始めるのです。

 

アンナは既婚者ですが、互いにひと目ぼれした

様子は、見ていて一目瞭然なのでしょう。

 

社交界のいやらしさについては、ドイツの

哲学者ショーペンハウエルも自著『幸福について

という人生論の中で、次のように揶揄しています。

 

………

すべて社交界というものはまず第一に必然的に、

人間が互いに順応しあい、抑制することを要求する。

だから、社交界は、その範囲が大きければ大きいほど、

味気ないものになる。………社交は犠牲を要求するが、

自己の個性が強ければ、それだけ犠牲が重くなる。………

上流といわれる社交界は、われわれが褒めることも愛する

こともできないような人間の見本だという欠点があるばかりではなく、

われわれが自己の本姓に合致したあり方をするということも

承認してはくれない。むしろ、他人との調和を重んじて、

萎縮したり、さらにはなはだしきは、己を枉げたりすることを

余儀なくされるのである………(引用ここまで)

 

つまり、社交界のパーティに出ても、幸せな気分には

なれないということ。自分たちの本来言いたい、やりたいことを

ふせて、自己欺瞞の世界に浸らねばならないからだと、彼は言う。

 

確かに、派手なパーティほど、虚飾と欺瞞に溢れているかもしれませんね。

 

そんな中、先のアンナとヴロンスキーは、自分たちだけの世界に

浸り、踊り、周囲の嫉妬と反発を買ったわけです。

 

不倫の匂いを

漂わせながら。

 

社交界の不文律に抗い、自分たちの自然な気持ちを優先させたのです。

 

その結果、どうなったのか?

 

この小説を読まれた方は、結末をご存知だと思います。

 

アンナは、最終的に自殺します。夫と子どもとも別れ、

ヴロンスキーとの愛の生活を目指すも、ふたりのすれ違い、

微妙なボタンの掛け違いもあり、悲運な結末を迎えたわけです。

 

この小説は、ただその悲運な女性の人生を描いただけでは

終わっていません。

 

同じくザ・セカンドワルツに乗って踊り、

先のふたりにそれぞれ振られた形になった

キチイとリョービンの1組のカップルが幸せな

結末を迎えるという、何とも皮肉なストーリー展開に

なっているのです。

 

人間なにが幸いするか、何が災いするかわからない!!

 

そんなトルストイのメッセージも聞こえてきます。

 

日本にも、こんなことわざがあります。

 

「禍福は糾える縄のごとし」

「七転び八起き」など………。

 

ここだけ見れば、人生どっちに転ぶか分からない気が

しますが、こんなことも言えそうです。

 

自分が何をやりたいのか(目的)、その志を抱きながら、

今という時を丁寧に生きていくのが幸せの道となると。

 

ただし、我欲は程ほどにした方が良いかもしれませんねと。

 

ロシアやドイツの先人が教えてくれる教訓だと感じて、

ここにしたためました。

 

それにしても、ショスタコヴィッチの『ザ・セカンドワルツ』は、

優雅で実に美しい音楽だと感じました。

 

幸せになるための教訓を知り、それを盛り上げる音楽として

とらえることとします。