先日、話題の『ドライプ・マイ・カー』を観た。
村上春樹はほぼ同年代なので、デビュー作から読んでおり、
どちらかというと好きな作家であった。
「春のクマのように」などの彼独特な形容が好きだ。
ドキュメンタリーだが『アンダーグラウンド』から作風が変わり、
しばらく遠ざかっていたが、この映画の原作となった
短編集『女のいない男たち』は読んだ。
が、もともと短編が好きではない私には、「読んだ」という以外の記憶がない。
そんなわけで、どんな内容だったのかを確認するつもりで映画を観たわけだ。
上映時間3時間ときいて、短編、しかも50頁くらいの小説をどうしたら3時間の映画にできるのかという興味もあった。
結果は見事の一言に尽きる。
もちろん個人的感想だ。
はらはら、ドキドキするストーリーでもなく、淡々と、まさに淡々と3時間という時が流れるのだが
私はまったく退屈しなかった。
確か「喪失と再生の物語」のようなコピーがついていたように思うが
「喪失と再生」は通奏低音であって訴えかけるものはもっと深く重い。
ネタばれになるが、見終わって初めてなぜ『ワーニャ叔父さん』だったのかわかったような気がした。
実に重層的な脚本に脱帽した次第である。
私自身、2年前に最愛の母を亡くしたからかもしれない。
母と言えば、母ならこの映画を見ながら
「なんて冗漫な映画なの。どこが面白いの?」と言っただろうと思う。
実際、ある時期、レンタルビデオを借りて、一緒に見る度に
この言葉を繰り返していたのだ。
20年以上前のことだが、今思えば、すでにその頃から認知症でストーリー展開について行けず、
理解もできないことを「冗漫」という言葉でごまかしていたのだろう。
そんなこととは夢にも思っていなかった私がムキになって反論し、口論したのは言うまでもない。
認知症は見分けるのが非常に難しい。
特に初期は。
だが、いつもの日常の中で、認知症患者は小さなサインを出しているのだ。
母の場合、もともと何にでも批判的で、褒めるということが少ない人だっただけに
私はその小さなサインを見逃した。