大瀧詠一氏の曲を聴いていたら「ぼくの岸辺」という言葉がポンと飛び込んできた。
「わたしという存在の岸辺」はどこにある?と考える。
それは同時にいくつも存在し、すべてが岸辺である。
どこまでが「わたし」と認識しているかで変わる。
「わたしという存在」は多次元で幾重にも重なりながら同時にここに存在するから。
「わたし」をどう認識し、規定し、感じてるかでそれは変化するから。
でも、そんなこと言っても多くの人はわかんないだろうなぁ~。
「わたし」という存在の多次元性はセラピスト講座でお話ししているけど
どれだけ伝わってるかは、わからない。
結局感じるしかないし、自分の変化・成長とともにわかるのだろうから・・・・。
うーん、もっと簡単に伝えられないものだろうか。
ところで、「わたしの心の岸辺」というものは明確にありそうだな。
もちろん実在というよりは、本人がどう規定しているかだけだけど、「わたしという存在の岸辺」よりはわかりやすそうだわ。
ただ問題は本人自身がどう規定しているか認識してないってことが多いこと、かな。
「わたしという存在の岸辺」はどこにある?と考える。
それは同時にいくつも存在し、すべてが岸辺である。
どこまでが「わたし」と認識しているかで変わる。
「わたしという存在」は多次元で幾重にも重なりながら同時にここに存在するから。
「わたし」をどう認識し、規定し、感じてるかでそれは変化するから。
でも、そんなこと言っても多くの人はわかんないだろうなぁ~。
「わたし」という存在の多次元性はセラピスト講座でお話ししているけど
どれだけ伝わってるかは、わからない。
結局感じるしかないし、自分の変化・成長とともにわかるのだろうから・・・・。
うーん、もっと簡単に伝えられないものだろうか。
ところで、「わたしの心の岸辺」というものは明確にありそうだな。
もちろん実在というよりは、本人がどう規定しているかだけだけど、「わたしという存在の岸辺」よりはわかりやすそうだわ。
ただ問題は本人自身がどう規定しているか認識してないってことが多いこと、かな。