春が来て、花がひとしきりに咲いて、緑がめきめきと芽吹いて、
2年前を思い出します。
最近は、自分の意識?魂?と、自分の体(脳の活動含む)との分離をすごく感じている。
体は自分のものではないというか、
ただたまたま与えられた、ほぼ全自動の乗り物のようなかんじ?
死ぬとは、
外の世界を感じられる窓である体とお別れするってことだとおもった。
だからいつか夫が死んだら、それはわたしの一部が死ぬのと同意かな。
夫が笑っているのをみたり、美味しい顔をしてるのをみたり、わたしに何かを話しかけてきたり、温かい手でふれたり、いろいろ発するエネルギーが感じられなくなるのだから。
感じられていた感覚が存在しなくなるということだ。
人生とは、なが〜いなが〜い映画みてるみたいなかんじ。
いい人生だった。
そう思って死にたい。
大事な人にはそう思って死んでもらいたい。
そのために精一杯できることをしよう。
娘には、それができなかった。
生きて生まれてきたら、
障害をかかえても、いい人生だったと思ってもらえたかもしれない。
できたかもしれない。
ちょっとでもそうおもったら悲しくなった。
勇気がなかった。幸せ以外の世界にさらす覚悟ができなかった。それは障害あるなしは関係ない。
覚悟がたりなかった。
健常な子をうんでも、できていなかった覚悟。
たられば。
だから、生まれた人には、障害があろうがなかろうが、その人にとって素敵な人生でありますように。と心から願う。
わたしの意識が、わたしの体にできることは、
提案をすること。
どゆーことかというと、
お腹すいた!→たべよ!
おいしー!もっと食べたい!→だよねー!食べちゃお!
ってそれでいいよって自動再生モードのときもあれば、
ダラダラした〜い!→ちょっと体動かした方が体軽くなるよ。ヨガしたら?
って説得したり、
提案したからといって、
いうこと聞くかはわからないけど。
いや、ほとんど言うこときかないけど。笑
だから私とは他人とそう変わらない。
私の意識が、私の体によい波動をだして、他人の体と意識によい波動をつたえて、
それが生きてるうちにやるべきことかなっておもう。
私も他人も、しあわせでありますように。