数ヶ月前、高校の同級生がご主人の赴任に同伴してドバイに行くか否かを迷っていた。中高生のお子さんの反応や彼女の経験・性格などから、私は直感的に「一緒に行った方がいいよ」と同伴することを結構強く勧めた。彼女が迷う理由・気持ちはもの凄くよく分かったが、それでも同伴することを勧めた。それから、家族でいろいろ話し合ったんだろう....。もうすぐ家族でドバイに向かう。変化を楽しんでもらいたい、いや彼女なら楽しめると信じている。

年齢を重ねると、変化を面倒に感じるようになる。少なくとも私はそうだ。環境の変化といった大きな変化ではなくても、ちょっとした変化でもパワーがもの凄くいるように感じ、アクションを起こせなかったり億劫に感じてしまう。「年齢を重ねると、経験から様々な予測が可能になり、物事を決断するのに時間がかかるようになる。それは歳をとったから決断が遅くなっているのではなく、今までの長い経験に基づき様々なこと・リスクなどが予測できるために、どうしても決断が遅くなる・迷う」といったことをあるテレビ番組で脳科学分野の専門家が述べてた。納得!このことからも、年齢を重ねると、決断にしろ、アクションを起こすにしろ、パワーがいるように感じてしまう。何も知らずに突っ走ることができなくなる。

だから、50歳の高校の同級生が受験期の子供とともにドバイに行くことはもの凄くパワーがいるこで、とても大変だと思う。でも、羨ましいという気持ちもある。ドバイに行くことに対してではなく、変化に挑戦しようとする彼女の姿勢に刺激を受ける。

私は今までの経験から、「攻め続けないと・ぶつからないと道が開けない」「変化を楽しむぐらいの気持ちが必要」「その時々で迅速に判断・決断。状況が変われば方向転換」といった信念がある、いや、これらのことを自分に言い聞かせている。だからこそ、新たなことに挑戦する同年代を目のあたりにすると刺激を受ける。

私は、結婚後、数年に一度のペースで転居してきた。海外と日本を行ったり来たり...。転職は言うまでもなく、生活基盤をゼロから築く必要があった。そのことに疲れを感じることがあった。でも、今、冷静に考えると、半強制的に変化し挑戦する機会を与えてもらっていたように思う。ある意味楽だったのかもしれない。

7年程前に中国から帰国してからは、認知症義母の介護・自身の闘病という日々が昨年あたりまで続いたが、これもまた今、冷静に考えると、ある種の変化し挑戦する機会だったとも思える。

自身の闘病は一段落、義母は他界、新天地・福岡での生活も落ち着いた今。平和で幸せだが、攻めの気持ちを忘れつつある。このままで十分だと思う反面、もう少し挑戦しないと!と思う昨今だ。責めないと現状が維持できないと思う。

理屈っぽくアレコレ書いたが、基本は日々楽しめればそれで十分!でも、日々を楽しむには責める気持ちがないと駄目だとも思う。

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