昨日は、静岡で日韓交流フォーラム、一昨日は、静岡県第5区総支部の会合で徳川宗家の徳川家広さんとディスカッションを行いました。ここ半年ほど、関心を持ってきた徳川家康と朝鮮通信使についてじっくり考えることができました。

 

来年は、徳川家康没後400年。静岡ではそれにちなんだイベントが企画されています。歴史上の人物としては、革命家とも言うべき織田信長、庶民から天下人となった豊臣秀吉と比較すると、家康の人気は率直に言って今一つです。私は、これを機会に徳川家康が再評価されるべきではないかと考えています。

 

家広さんから指摘があったのは元和偃武の歴史的意義です。1615年、夏の陣で大阪城(豊臣宗家)が滅び、応仁の乱以降、続いてきた戦乱は終結しました。家康は元号を元和に改めて、戦乱の時代が終結したことを宣言します。もちろん、諸大名に対する牽制や恫喝は続きましたので天下泰平というわけではありません。しかし、幕末まで240年以上にわたって戦乱のない時代が続いたことは、世界でも稀に見る平和な時代であったと言っていいでしょう。

家広さんは、徳川家康は「地味だ」と表現されていました。為政者の評価は現代に通じるものがあります。派手な政治家が国民の人気を博することはありますが、その人が権力を持つことが国民を幸せにするかどうかは別問題です。むしろ、人気のない地味な為政者の方が国民を幸せにする例は少なくありません。家康の再評価は現代の政治のあり方を考える上でも、一つのヒントになります。

 

家康の業績の中でも特筆に値するのが朝鮮通信使です。秀吉の朝鮮出兵の後、朝鮮半島との関係を修復する役割を担った朝鮮通信使は、対馬から瀬戸内海、淀川を通って上陸し、江戸までの陸路を往復しています。私の出身地である滋賀県と選挙区である静岡県にもその遺跡は数多く残っています。

 

以前にも書きましたが、滋賀県の実家のすぐ目の前を朝鮮人街道が通っており、私はその道を通って学校に通っていました。朝鮮人街道は、朝鮮通信使の通る道として滋賀県にだけ整備されたものでした。この道を解明したのが私の母校の彦根東高校の新聞部という縁もあって、先日、当時の顧問の門脇先生に話を聞きに行ってきました。

 

静岡県の中で最も朝鮮通信使の遺跡が残っているのが興津の清見寺。そこに行くと、400年前から日本と朝鮮半島は軋轢を抱えながら共存を図ってきたことが分かります。日韓の歴史を数百年単位で捉えなおして日韓関係の改善を実現するためにも、朝鮮通信使は最も適した事例だと思います。

 

 

日本国内に朝鮮通信使縁地連絡協議会が存在しており、近江八幡市、彦根市、静岡市など私にとって馴染みのある市が加入しています。これからは、自治体が外交で果たすべき役割はますます大きくなりますので、この協議会に私は期待しています。協議会の代表は、朝鮮通信使の橋渡し役を担った対馬市が務めています。この対馬に関連して問題になっているのが、2012年に起こった仏像の盗難問題。窃盗犯には、韓国の刑事裁判で実刑が下されていますが、仏像は対馬に還されていません。昨日のフォーラムの中で、朝鮮通信使の意義を日韓で確認するためにも、韓国側は仏像を返還すべきだと発言してきました。やはり、最近の窃盗と、検証がおそらく難しいであろう数百年前の略奪の有無を同列に論じることはできません。

 

来年は、日韓基本条約制定から50年の節目を迎えます。しかし、今のところ、両国間にそれを祝う雰囲気はありません。むしろ、来年は戦後70周年ですので、わが国の談話次第では日本が国際的に厳しい立場に追い込まれる可能性があります。日韓関係が更に悪くなることを私は強く懸念しています。北朝鮮問題だけを考えても、これ以上の悪化は両国の国益に明らかに反するからです。

 

 

歴代総理の中では、地味な部類に入る小渕恵三総理は、「21世紀の日本の構想」の中で近隣諸国との関係を外交に留まるのではなく、「隣交」にすべきだとしています。15年前と比較しても、中国由来のPM2.5やエネルギー問題など日韓共通の問題は多くなっていますし、両国の人の往来は容易になっています。「隣交」を進めるために、私自身がやれることを精一杯、地味にやっていこうと思います。