予定が空くと末廣亭、鈴本演芸場などに立ち寄る私にとって、『東京かわら版』は必携アイテム。月末にかわら版が届くと、「これは」と思う落語会をチェックする。以前は、人目を忍んで行っていたが、最近は「落語は日本人に必要な教養である」と開き直ることにした。

 

先日、議員仲間との合宿に柳家さん喬師匠をお招きした。演目は「百年目」。番頭と旦那のやり取りの最終盤、会場は水を打ったように静かになった(政治家の演説ではなかなかこうはならない)。どんなに有能な番頭がいても、懐の深い旦那あってこその大店。思い起こすのは、官僚や秘書と、我々政治家との関係。「我々が決めるのが政治主導だ」と力んでいた政権運営は正しかったのか。民主党政権には大旦那がいなかった。

 

落語の主人公は庶民だ。元来、多様性を包摂する力が日本社会にはあった。先日の落語会では、立川生志師匠の「道具屋」での与太郎と客のやり取りに爆笑した。与太郎がいた方が周りは明るくなり、助け合った方が社会は強くなる。与太郎噺に苦労人である師匠の人柄が滲み出ていた。

 

 

落語を聴くようになってから、間の取り方、枕が参考になることに気がついた。政治家に落語好きが多いのはそのためかも知れない。木戸銭の安さで笑いを誘う枕を聞くと、客の肩の力が抜ける。政策について何も語らない政治家は存在する意味がない。ただ、少しでも楽しんで帰ってもらえる話をしたい。噺家を見習って、政治家も謙虚でありたい。

 

3.11の後、この国は笑いを忘れた。私も、官邸と東京電力本店で缶詰になり、極限状態で笑わない日々を送った。性格は顔に出るというが、逆もまたしかり。顔が固定されると性格が変わる。半年後、楽天家のはずの自分が、「周りは一所懸命にやってくれていないのではないか、私の悪口を言っているのではないか」と疑っていることに気が付いた。それから、週に一度は秘書官たちと腹いっぱい飯を食い、大いに語り、笑うことにした。

 

最初に「落語は日本人に必要な教養である」と書いたが、演芸誌での初寄稿に気合が入りすぎた。「落語は教養でも(・・)ある」が、本当の目的は肩の力を抜いて笑うこと。苦しい時ほど、落語を聴いて「笑顔」を忘れず、前に進みたいと思う。