NHK連続テレビ小説「あさが来た」の視聴率は、好調を維持したまま終盤を迎えている。早朝の予定がない朝の時間に、妻が見ているテレビを横目で眺めている程度なのだが、明治の激動期にあって、炭鉱業、銀行業など新たな事業にアグレッシブに取り組む姿を見ると、応援したくなる。事業家として大きな業績を残した浅子は、その後、日本女子大の創設に参画するなど、女子教育に力を入れるようになる。

人気が高まるに連れ、地元では、主人公である広岡浅子(ドラマでは白岡あさ)と御殿場の縁が話題になるようになってきた。西に富士山、東に箱根山を望む御殿場市は、古くから有力な政治家や経済人が避暑地としてきた。広岡浅子もこの地に別荘を構えていた。1914年から彼女が亡くなる1919年まで、夏季勉強会が開催され、女性参政権に尽力した市川房江、『赤毛のアン』を翻訳した村岡花子などが参加している。



浅子の別荘があった場所のすぐ近くに、YMCAの研修施設である東山荘がある。後にクリスチャンとなった浅子は、東山荘の建築にあたって日本人の寄付金の大半を集めている。昨年末、東山荘創設100周年の記念式典が開かれた。関係者の中での話題の中心は浅子であった。もう一人、話題をさらったのが東山荘の設計者であるウイリアム・メレル・ヴォーリズだった。彼は、私にとって馴染み深い人物だ。私が幼稚園から中学校まで12年にわたって通った近江兄弟社学園は、1922年、キリスト教宣教師でもあったヴォーリズと夫人である満喜子とで創設された。教育においては、「場」が果たす役割が大きい。1931年に設立された幼稚園舎(現在のハイド館)には、入った者が包み込まれるような温かみがある。園児の目線に合わせたように設計された手すりの感覚や、壁や柱の模様を今でも思い出すことができる。小学校の体育館(現在の教育会館)は、朝の礼拝、演劇発表、ドッジボールなど6年間の思い出が詰まった場所だ。秀逸なのが音響。讃美歌の響きは今でもあの建物と一体のものだ。困難に直面した時に帰ることのできる学び舎があることは、ありがたいと思う。

私が幼稚園に入園したのは、満喜子が亡くなった数年後のことだ。まだ、創立者の影響が色濃く残っていた。しばしば耳にし、今でも沁みついているのは、「よく見る目、よく聞く耳、よく考える頭、よく働く手足」という学校訓。その後、様々な教訓を耳にしたが、この言葉が最もシンプルで、実行しやすい。

ちなみに、学園に先立って設立された医薬品メーカーである近江兄弟社メンソレータムは、私が学園に入った直後に倒産してしまった(その後、メンタームとして見事に復活)。当時は、学園の経営も困難な状況にあった。子供心に、校舎は立派なのに、質素な学校だと思ったものだ。全校児童150人。6年間同じクラスの同級生とは、学校名そのままに兄弟のように育った。家庭環境は様々。個性的な子どもが多く、障がいのある同級生もいた。人間の能力にそれほど大きな差があるわけではない。差がつくとすれば、個人の思考の持続性とチームワークという考えが、私の人生の土台となった。

満喜子は、広岡浅子の娘亀子(ドラマでは千代)の婿(広岡恵三)の妹にあたる。聞くところによると、浅子の家に居候をしていた満喜子は、改築に関わったヴォーリズと運命の出会いをしたようだ。ヴォーリズは結婚を申し込んだが、国際結婚はほとんど考えられない時代で周囲の大反対にあう。浅子の後押しがなければ二人の結婚はなかった。浅子の前向きな人生観が二人の背中を押し、それが近江兄弟社学園の設立につながったのだ。近江兄弟社学園で育てられた私が、浅子が教育に心血を注いだ御殿場を地元とするようになったことに、不思議な縁を感じている。    (敬称略)