笹川平和財団主催シンポジウム(3月8日,於ワシントンDC)
sasakawa USA ホームページの記事はこちら


1 序

5年経過。東京電力福島第一原発事故には,政府担当者として2011年3月11日から2012年10月1日までの一年半、責任者として対応。事故対処や再発防止策の策定に全力を投じた。
そうした中,同盟国米国の協力は貴重な支え。ルース前大使,フィールド元在日米軍司令官,カストー元NRCチームリーダーら米関係者の温かく力強いリーダーシップとフレンドシップは,当時の日本の対処を助けただけでなく,震災後の日米協力の更なる強化の礎となった。改めて感謝。
今も、福島では今なお故郷を追われた地元の方々が多数おり,困難な中にある。その一方で、福島では明るい動きもスタートしている。昨年4月に開校した浜通りのふたば未来学園には定員を超える生徒が集った。ロボット・無人化の拠点としての機能も発揮しつつある。
今回,日米関係という切り口から改めて当時を振り返り,今後の教訓について学びたい。
2 5年前を振り返って

(1)事故当初の対処

ア 初動

震災までは税と社会保障一体改革担当首相補佐官。震災が発生して一変。震災当日から福島第一原発対処に専任。刻々と悪化する状況を目の当たり。3月14日,吉田所長から電話。「もうダメかもしれません。」に戦慄。振り返れば,世界史上稀にみる危機に直面していた。寝る間もなかった。平時の思考では事態に追いついていなかった。国内での統合本部,日米での日米会議の設置は危機の産物。
イ 統合本部

3月15日早朝,東電本店へ乗り込み,政府・東電統合対策本部を設置。東電との一体となった対処が必要だった。菅総理の直観的な防衛本能の発露。以後,現場との意思疎通は格段に改善。困難は続いたが,問題把握,対処検討,意思決定のタイムラグは極小化。
3月17日,自衛隊ヘリ放水。国家としての決意の表れ。折木元統幕長始め防衛相・自衛隊関係者に改めて深い敬意を表したい。入った水の量は多くなかったが、わが国の最強の部隊である自衛隊が行動を起こすことに大きな意味があった。米国も日本の決意を受け止め。
その後「キリン」投入。日本側エンジニアの意地。臨機応変な創意工夫。以後,最悪の状況は徐々に脱出。
ウ 日米会議

統合本部設置と同時期,日米間での意思疎通の問題が顕在化。政府全体で対処するためのプロセスを開始。
日本側は福山官房副長官がヘッド。他方,震災対応の中多忙を極めたため,実質的に自分がリード。カストーリーダーやズムワルト在京米大次席は会議中,常に日本側の判断を尊重。支援物資の円滑な手配,専門的知見の共有など会議の成功に寄与。
プロセスは当時単に「日米会議」と呼称。その後,米国で「ホソノ・プロセス」と呼ばれていることは何よりの名誉。2011年12月,冷温停止状態発表後に終了。打上げ会は印象的。
(2)日米間のギリギリの議論

 日米間の当時の議論は全てがスムーズであったわけではない。ギリギリの議論もあった。教訓を学ぶためには,むしろそうした議論を取り上げることが有益。

ア 四号機プール

事故後,多量の使用済み燃料を保管する四号機プールの問題が顕在化。米国は同プールの水量,保管燃料の発熱量などを科学的に計算して同プールの水量枯渇を強く懸念。日本側は,航空写真から水面のきらめきを確認。双方の見解はしばらく平行線。
結果は日本側の見解どおり。これは,震災の揺れにより同プール隣接のタンクの水が想定外に流入していたため。そのような水の偶然の流入がなければと思うと今でも背筋が凍る。
イ 50マイル避難

四号機プールの議論は,日米間での異なる避難範囲の設定に直結。米側は,四号機プールの水量枯渇との評価に基づいて避難範囲を設定。
しかし,危機の最中に限られた情報の中,自国民保護の観点から判断が必要であったことは理解。大使館機能を関西へ移動させた国もある中で,米国は東京に止まり支援を継続したことも事実。同盟国として一体となって対処する中でも,異なる視点が考慮されることは往々にあり得る。
ウ 最悪のシナリオ

危機の高まりの中,内々に「最悪のシナリオ」を作成することを決意した。それまでの、想定を超える事態に後手に回って対応してきたが、考えうる(起こらないであろう)最悪の事態をあえて想定し、そうならないための対応策を検討するアプローチに変更した。
具体的対処についても米国側から知見を得た(例,スラリー投下など)。これは,防衛当局間の伝統的な意味での「同盟」のみならず,日米会議を通じて原発事故対処当局間の「同盟」を築くことができた成果。


3 教訓

(1)情報発信の重要性

事故対応は国民に対する情報発信と表裏一体。報道の自由は日米の強みであり,これは避けて通れない課題。4月の後半からは、政府と東電が合同で記者会見を行った。質問が途切れるまで継続した結果、当初は連日5時間の会見となった。質問で答えられないことについては、次の日に説明することを繰り返した。
情報発信の早さと正確性はトレードオフの関係にある。メルトダウンという表現を使わずに、燃料損傷、燃料溶融などの言葉を使ったことが、かえって情報を隠しているとの印象を与えた。反省が必要。全体の状況を説明し、その上で、具体的な情報が明らかになった時点で補足の説明をすることを心がけた。
(2)機能する日米同盟に向けて

日米新ガイドラインでは,同盟調整メカニズム(ACM: Alliance Coordination Mechanism)を設置。様々な事態対処を想定し,必要に応じて関係省庁を関与させる仕組みを整えたと理解。原発事故の教訓を踏まえたものとして歓迎。
しかし,制度だけで同盟は機能しない。事態へ対処する中でのリスクをおった決断の積み重ねこそ,同盟が実際に機能する上では不可欠。その心構えが求められることを外交・防衛のみならず事態対処に関与する政府関係者は広く認識しておくべき。
一方,原発事故対応を通じて痛感したのは米国の「温かさ」。米国自身,国益をかけた様々な判断の上での対応であったにせよ,ルース大使やカストーリーダーの真剣かつ「温かい」対応は,厳しい毎日の中で心の支えとなった。ハードな状況の中で,「ハートの通った同盟」であることを実感できたことは財産。
こうしたハートの通った同盟を発展させ、次の世代に受け継ぐことこそ、事故対応に関わった我々の責務だと考える。