社会人絵画教室(京都市下京区) 卒業生1万人超 美術館運営 ゴーキ美術研究所

社会人絵画教室(京都市下京区) 卒業生1万人超 美術館運営 ゴーキ美術研究所

ゴーキ美術研究所は京都市下京区にある美術館運営の京博連加盟唯一の絵画教室。講師はセザンヌ、ルノワール、モネ、ゴッホらから油絵を学び、京都の風景を描き続けた画家。週1回・初心者歓迎。まずは美術館見学で作品をご覧下さい。

          開学の念願と理想



激動の時代に

 科学技術の急速な開発による機械工学の産業と経済の発展が現代の特色です。
 生命と物質の科学は、クローン生物の実現を可能にしています。
 しかし科学技術の物質文明がもたらした、地球の自然破壊、森林の大規模伐採、数多の動植物の種の絶滅、動物の虐待。環境汚染、地球温暖化。貧富の差の拡大。階級と人種民族の差別。宗教争闘。核兵器をはじめ、人間の科学技術がつくった心のない物質の悪使用によって、人類のみならず地球の全ての生物が滅亡の脅威と危機に直面している今日です。
 同時に地位と物と金の欲望にまつわる不正、卑怯な権力、暴力、殺傷、おどし、ゆすり、だましが横行しています、人心荒廃し殺伐とした現代社会です。



如何に生き、何をなすべきか。


争うな。
殺してはならず、
殺させてはならない。
権力と暴力を認めない。
戦争に反対する。

 自己の低劣な現世欲、名利栄達欲、物欲、金欲、闘争心、殺害心、粗暴性、獣性、淫蕩性。これらの邪欲、悪業を捨て去り超越する。永遠の真理と、その義と道に生きる。
 組織集団や個人の権力と暴力、邪悪と不正を容認せず、毅然として、己の身命をなげうって対峙する。死ね、そして成れ。これが本当の人間と芸術家たる者の日々の決意です。



真理は一つ。芸術と科学と宗教の探求の究極の目的は一つ。

 科学(数学、天文学、物理学、化学…)は人間の外部の客観的自然(真実)の探究です。芸術と宗教は人間の外部の客観的自然と、内部の主観的自然の両面の一体性の探究です。
 科学者と芸術家と宗教家が共に、自然の真理、真実、美を探究する最も大切な感情は、自然の存在の生命に直面した時の感動と驚嘆と畏敬です。
 人類の大天才が創造した芸術と宗教の作品との出会いは、感動と驚嘆と畏敬です。
 人類の偉人、天才の精神の特質は愛、慈悲です。
 人間の外部の自然も、人間の内部の自然も、内部と外部の一体の自然も、科学の探究も、芸術と宗教の探究も、真理(真実)は一つであり、天地に二つはない。二つあればいずれも真理ではない。それゆえに、あらゆる対立と争闘を超えた、非暴力、非権力の、絶対平和と平等の思想であらねばならない。
 科学と芸術と宗教の究極の目的と理想は一つであるべきです。
 今日、科学と芸術と宗教の調和が肝要であります。
 科学と宗教と芸術の綜合的研究が待たれています。
 現代は芸術家や宗教家や科学者が自然の真実と美を探究する純粋で真摯な魂を喪失しています。
 科学から生まれた技術がつくり出す物質文明の便利安楽に同化順応し、自然を探究する質素で謙虚な生活態度を忘失しています。



地球、愛、自然との共生。直接性の回復。

 太古において、人間の芸術的な創造は、全ての生命の父母である自然から生まれました。現代は科学技術を万能と過信しがちな物質文明の時代です。しかし今後いかに科学技術が進歩しようとも、人間が自然、宇宙を創ったのではないのだから、人間が自然を完全に支配することなど永久に出来ない。所詮人間は自然・宇宙から生じた生物の中の一つであり、自然・宇宙の中の微少な存在です。然るに父母なる自然に背き、自然を破壊する人類の愚行はとどまることを知りません。人間がつくった科学技術の悪利用によって地球の全ての生命が滅亡の危機に直面している今日、自然の命を尊び慈しみ愛する心こそ何よりも大切なものです。
 科学で自然を支配し征服するという人間中心の傲慢な生命破壊と闘争の思想ではなく、自然の諸存在の生命を平等に価値あるものと見て、畏敬し愛することが、現代において最も大切なことです。
 この心をもって芸術家は自然の研究に全生涯を捧げなければなりません。
 人間のわずかな才能を驕り、霊感や神来に頼ってはなりません。芸術家の資格は誠実と努力、意志と忍耐です。
 絵画や彫刻などは視覚と触覚によるものであり、音楽は聴覚によるものであり、文学は抽象的な文字によるものです。偉大な芸術作品は頭脳、眼、耳、手などの人体の各部分ではなく、全身全霊をもって創作されたものです。尊厳な永遠な自然に全力をもって立ち向かい、自然を傍観せず凝視し、自然の生命と芸術家の人間の生命が合体したものです。
 工業化し機械化しヴァーチャル化していく現代、自然への絶対の信仰をもって、自然に帰依し、自然に直接に対峙し、強い意志と忍耐力をもって自然を研究し、感動と新鮮な感覚がある生きた作品を創造することが肝要です。



傾倒と讃嘆。伝統と創造。

 「偉大な人間に傾倒した者ばかりが、文化の最初の清祓を受けるのだ」
                             ニーチェ
 「頭を下げよフイディアスの前に、そしてミケランジェロの前に。讃嘆せよ、前者の神々しい静けさを、後者の激越なる苦悩を。讃嘆は高貴な人間が酔うにふさわしい芳醇の美酒である」
                             ロダン
 現代は、大自然と、太古から近代までに人類が創造してきた、偉大な芸術作品とその作者である人間への、尊敬と愛を喪失した時代です。
 自然と巨匠、天才から啓示を受け、彼等から学び、自己の人間形成、人格形成(思想、哲学、人生観、世界観)に努め励むことを、しなくなった時代です。
 現代は、巨匠、天才に全身的に傾倒せず、それゆえに彼等を継ぐ巨匠、天才が出ない時代です。
 自分が芸術をつくるのではない。歴史上の諸々の芸術の傑作に出会い、傾倒し、研究し、時には対決して、一生涯かけて仕事をして、自分の芸術をつくるのです。このことは、歴史上の偉大な芸術家達に共通する宗教的精神態度です。
 彼等先人達を模範として我々は、殊更新しいものをつくろうとか、世間に目立つことをしようとか考えたことは全くない。自然と歴史上の巨匠、天才達の作品から学ぶこと。この人間としてあたり前のことをしようと努め励んできました。非凡なことをしたと思ったことは全くない。現代はこのあたり前のことを失っています。
 現代芸術は、芸術の神々を喪失し無思想・無理想・無信仰の廃墟のようです。
 巨匠、天才とは、真実と愛をもって、自然を深く探究した人達です。
 日々早朝から日没まで、屋外で制作に勤勉努力する芸術家にとって、自然は新鮮な尽きることのない生命であり、力であり、神であります。
 自然を研究し創作することが信仰であり、道徳であります。他所にはありません。
 自然・実在・生命がなければ、太古からの人間の健全な芸術創造の行為は存在しないのですが、現代は自然・実在・生命(生きた神)との直接の交流という根本と源泉を喪失した芸術文化の不毛の時代です。
 こんな時代に、敬虔な心で、再び自然と、伝統、古典、巨匠から学び、生命のある芸術文化を復活させよう。




ゴーキ美術研究所-祈り








$ゴーキ美術研究所



何をするか。何を描くか。



自然へ帰る。

自然と共生。共生は人間中心ではなく、自然中心に人間が自然に
生かされているという謙遜な心。感謝の心。

屋外の風景の現場で制作します。 

自然と共に在り、自然になり切ります。


自然を描く。

機械化、ヴァーチャル化がすすみ、生命をむしばむ物質科学技術偏
重の時代に、現実の自然の実在の生命との直接の感動と感覚の回復。
手づくり、物づくりの復活。
各人が自分しか描けない個性のある作品を、又、時流に迎合した
皮相なものや、マスプロダクションの安物より、ユニークな上質の作品をつくります。

自然の生命の中に精神あり。感覚あり。
人間の色彩感覚は最新のデジタルカメラでも全く表せない。
人間の形態感覚はヴァーチャルナ映像では全く表現できない。

地球の大地、山河、海、樹、草花、人間、獣、鳥、虫、魚…
都市と村落、建造物、道具…を描く。


風景。
  京都を描く。
     古来からの精神伝統が現在も生きつづけている世界でも
     稀有な歴史的風土を描く。京都の四季を描く。
     京都の周辺を描く。
     桂川と鴨川の上流。南丹。由良川。琵琶湖。瀬田川、
     宇治川。木津川。愛宕山、北山、西山、東山、比叡山、
     醍醐や宇治の山…。
    
人物。  現代の人を描く。子供から老人まで。
着衣、肖像、裸体を描く。(古代ギリシャ以来の西洋美術
     の根本は人体)
          
静物。  人間がつくった物――陶器、ガラス、金属や布類や造花等
     ――と自然の果物や花等との調和。

     風景、人物、静物を、三分せず、同じく自然とともに
   在るものとして制作します。




ゴーキ美術研究所 入学案内-武蔵野の土




ゴーキ美術研究所 入学案内-桂川




ゴーキ美術研究所 入学案内-早春の花




ゴーキ美術研究所 入学案内-南禅寺裏山



故郷へ帰る。

健全な時代と人生とは。
過去=現在=未来が連なっており、永遠なるものへの、なつかしさと奥ゆかしさと、愛情のある豊かで幸な時代であり人生です。それは自然宇宙観、生命觀、思想、体系に基づく、創造性、構築性のある文化であり生活です。これを古典的と言う。現代人の不幸は、心の古典の地、故郷を失ったことにあります。
各人の幼少年時代は過去です。
人類の精神伝統、文化遺産は過去です。
創造力、イマジネーション(想像力)とは、現在に過去を蘇らせる人間の能力です。
決して懐古趣味ではない。


温故知新

古きをたずねて新しきを知る。
古いものの中に本当の新しさを見出すことが大切です。
心の故郷に帰ることが、人間の何ものにも勝る幸せです。
そこに安心と救いがあります。
自然、神佛、師、父母、友人の恩恵を感じとり恩返しをする心が大切です。
エジプト、ギリシャ、中東、インド、中国、アジア各国など地球の人類の
文明の故郷を訪ねます。


永遠の生命の源へ帰る

 自然は人間がつくったものにあらず。人間は人間がつくったものにあら
ず。自分であって自分のものでない。大自然の生命の源から生まれ、生か
されて在るものです。そうして生命の源へと、自然に還って往くものです。
死は死ではない、自然なるものです。

自然の大地に立つ。
歴史的風土から精神文化伝統を学ぶ。
自己を見つめる。
生活の現実を見つめる。
師匠、祖先、父母から受け継いだ、偽りのない信仰心をもって、
静かな永遠的な愛をもって生きる。
あわただしい日々の生活の現実の中で、心が荒れて、刹那の激情、
感情にのぼせることなく、自分を見失わず、ゆとりをもって自分を
取り戻す。自然な法則にかなった知性的で冷静で平和な道を歩む。
芸術は自然と共にある「調和」であることを、人生と芸術の中に
実践する。日々新たに、生き生きと。

自然(人、花、樹…)の生命を心に感じ取る、感動する。
感覚や感動は絵を描く源。
愛と創造の本能(本性、天性)。
美に生きる生活。
美は愛が物に与える形です。

地球。人類の故郷。

各人の故郷の風景。

故郷の人々(父母、兄弟姉妹、友人…)。

人体、肖像、自画像。

歴史的風土、文化遺産(神木、鎮守の森、社寺)を描く。




ゴーキ美術研究所 入学案内-大樹




ゴーキ美術研究所 入学案内-日本の女





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2015年11月24日(火)14:00開場 15:00開演 場所 遠藤剛熈美術館 美術館・1Fホール 入場料:2000円 ~演奏曲目~ F.P.シューベルト  魔王 野ばら R.A.シューマン     美しい五月に F.メンデルスゾーン 歌の翼に 他 本 智敬 Tomoyuki  Moto  (Bariton) 具 歩美 Ku  Ayumi (Piano)
■  真理は一つ。世界精神の創造。 2

                       遠藤剛熈 

      (全2回の内の2回目最終回)


 人間の外なる大自然(客観世界)。

(人類がいなくても自然は存在する)

 宇宙、太陽、地球、大地。全存在と生命。

感情。魂。

 人間の内なる大自然(主観世界)。

 感情。精神、心霊、魂、実存、神佛。

 この両方の同一、一体化から人間の

芸術の創造活動が始まる。

 人類史上の芸術の二大方向の巨匠・天才達

—フィディアスとミケランジェロ(彫刻)、

李白と杜甫(文学)、モーツアルトとべートーヴェン(音楽)、

セザンヌとゴッホ(絵画)、

ラーマクリシュナとヴィヴェカーナンダ(宗教)、

— 前者の神的、佛的、アポロ的芸術と、

後者の人類的、ディオニゾス的芸術。

求心的と遠心的。半ば神的で半ば人間的な

芸術の生命を生き、両者を綜合すること。

真・善・美一体の理想をもち通し、芸術と人生

の両方に行為として実践すること。

 このことが、明治以後の日本の思想家や

芸術家達が充分に出来なかったことである。

芸術文化を鋭く論じても二者択一的で

一面的なものになっている。行動においても

妥協的で党派的になっている。

私が近・現代の西洋の芸術家や思想家の

仕事に共感するのは、彼等の「神=個人=人類」

の思想である。日本の芸術家の私の西洋の

芸術家や思想家への共感は、同じ人類だから

であって、人種、民族、国家のちがいは問題ではない。

 東アジアの島国の単一民族の日本は、

個人の確立が弱く、全人類的な仕事は盛り

上がっていない。ただし、奈良から鎌倉までの

時代の思想家の仕事や芸術の作品には、

佛教による人類的なものがある。

 この美術館から発する芸術文化活動は、

人類の文化—古典、伝統、巨匠を傍観せず、

客観的な観衆の一人ではなく、各人に

とって自分自身のことでありたい。

古典・伝統・巨匠=今日の人間が一体と

なって芸術文化を創造する場でありたい。

          2005年12月

■  真理は一つ。世界精神の創造。 1

                       遠藤剛熈 

         (全2回の内の1回目)

       芸術家にとって自然の一切が美である。

美は愛が物に与える姿、形である。

 いかに偉大な特別の人であれ、その人間

ではなく、大自然が根本であり、源泉である。

個人が大自然と合体したような、地球人類

の芸術、宗教、哲学の巨匠・大天才の創造

生命の精神の真理は、東洋人西洋人等の違い

は全くなく同一である。

 創造の芸術的真理と宗教的真理は一体である。

 宗教や芸術の大天才達の精神的本質は、

自然・全世界への愛・慈悲である。

自然を源とし、彼等を範として、各人が制作

修行し、更に同好の士と共同して、理想-究極は

神、佛-のために働くことが大切である。

 明治以後の日本の西洋文化の受容の根本意義は、

古代エジプト、ギリシャ、インド、ヘブライの

昔にさかのぼるまでもなく、近代十八世紀~

二十世紀前半における西洋の美術・音楽・

文学(全ての文字表現)の天才・巨匠達の作品

が信ずべきものであり、彼等の中から佛陀、

哲人、キリスト、予言者が出たことにある。

このような近代芸術文化に傾倒し、根本真理

を研究しなかったことが、現代の日本の芸術文化

が落ち入っている混迷と頽廃の重大な原因である。

 明治以後今日までの日本の芸術文化は西洋

とそれから米国の模倣と追従の域を出なかった。

しかしこれからは生活の現実と日本の自然と

精神伝統に深く根ざした、独自で普遍的人類的

な作品を創造しなければならない。

 先ず日本の自然の実在に即して自己を発見し

知ること。

 自然と自己が運命的に出会うこと。

 古来からの自国の芸術の傑作に出会い、

その根本をよく知ること。

 同時に極東の島国の日本が、アジア、

ヨーロッパ、アフリカ等の大陸文化の源流

をとり入れること。そのことが自己の芸術

の仕事の深まりと広がりのために役立つのである。

 偉大な特別の人間ではなく大自然が根源で

あるのだから、近代人の人間は萬物の霊長

というような、人間中心・自己中心の利己的

な排他闘争の思想ではなく、自然萬物の諸存在

の生命を分け隔てなく畏敬するという自然中心

の思想をもつことが現代最も大切である。

自然の中に神佛が宿り、神佛の中に自然が宿る

のが芸術の思想である。

 大自然がなければ太古からの人間の健康な

芸術的創造の行為は存在しない。

しかし現代は現実の自然との直接の交流と

いう根本と源泉を喪失してしまい、

芸術の不毛の時代である。

 こんな死んだ、亜流の時代に、再び

巨匠・天才の精神的情熱と生命と創造力が

ある芸術と学問を復活しなければならない。

……
(次号へと続く)

■  一筋の道

                       遠藤剛熈 


       私は徒党集団のためではなく、

個人として自分自身のために制作してきた。

 外面を見ず自分の内面のみを見つめ深め、

信仰や信念の真実のために戦い、努力してきた。

  「全世界を得るとも魂を損ずれば

何の得るところあらん」という聖書の言葉は

私にとって真実な重要なものであり続けている。

■ モオツァルトと私。

                       遠藤剛熈 


        この道の門出の少年の日において

すでにそうだったのだが、近年一層、絶対、

純粋、永遠なものを念願する気持ちが強い。

   利害打算や愛憎怨悪を超えた、無私、

無償の心と行いのみが、真実誠の人の道

だと信ずる。

   私は自然と街が調和した美しい古都に

生まれ育った。

   その故郷の地を描きつづけてきたが、

日本人の自然を観る心が、無常と慈愛で

あることを、少年の時から知っていた。

   モオツァルトの音楽は純粋な愛である。

慈悲である。

 モオツァルトは人生の唯中にあって、

真に人生を超克した。

   この西洋の芸術の心こそ、我々東洋人の心

と同じものである。

   大自然の恵みとともにあるもので、神の愛、

佛の慈悲にも通ずる心である。

 すでに亡い人々、やがて死ぬ全ての人々への

慈愛である。

   人々が生かされている、生命の根源の

大自然への愛と感謝である。


1999.4.13 .                                                                                              嵯峨野にて

■ モオツァルトのことなど。

                       遠藤剛熈 


      視覚と聴覚、絵画と音楽への愛は、

私の子供の時から心の本能的な要求だった。

   モオツァルトの音楽の特質は、

幼少年の日から音楽に固有の世界(自然)が

あったことである。

   初めにあった一つのものが、異常に

純粋だったこと。

その音の世界を一生涯変わらず聴き

つづけたことである。

   青年にもなりたがらない

純真で自足した少年の心。

人生の希望や生の欲求以前の清浄な静かな心。

   私は神、仏に通ずる純粋な愛、慈悲の心を、

モオツァルトの音楽から聴く。

神童モオツァルトを聴く。

   モオツァルトの後にやってきた

ベエトオベンの純潔な心。

人間として生きた愛情と廉直と誠実の人。

 子供の心を持ち通したセザンヌの

純真、至誠。神にえる画聖。

誰からも理解されず、唯一人で絵画に励んだ、

セザンヌの忍耐と、強い意志。

   セザンヌの後輩のゴッホ、ゴーガン、

そしてルオー。

   皆異なっているが、それぞれ永遠なものを

求めて、人間的な苦悩と歓喜の人生を歩み、

そういう絵を描いている。

            1999.4  初旬.

■ ミケランジェロとセザンヌ

                       遠藤剛熈 


    ミケランジェロとセザンヌを自分が

尊敬するのは、彼等のストイックな生活態度

である。

   彼等の精神が作品に現れている。

   修道僧の生活態度が、作品に現れている。
 
  情念、快楽に陶酔せず、感情に流されていない。

   真理の探求がある。

   厳然としたデッサン力がある。

   現代の日本人の絵画は、ミケランジェロ

やセザンヌのような本格のデッサン力が欠如し、

小手先のテクニックに堕落している。

   ますらおぶりの絵画。すなわち、

太い骨格(形態)と、豊かな肉体(色彩と調子)と、

高潔な人格を持つ絵画が失われて久しい。
 
 
             1994.

■ 「実存」について   2

                   (全2回の内2回目最終回)

                       遠藤剛熈 


  芸術家には、この純粋無雑で強烈な、

内在的超越的実存者との対決が不可避となる。

 佛陀となる釈迦は降魔の利剣を突き入れる。

 自らを神の子とするイエスは「地上に平和を

もたらすためではなく、剣を投げ入れるために

来た」と言う。

 釈迦、イエスは共にそれぞれ人々に、内在的

超越的実存者である佛・神か、それを欠いた

人間かの選択を迫る。

 プロメテウス的なベエトオベンは、人類の

ために悩み、人生告白する。ニーチェは、

十字架にかけられた人に対するディオニソスとなる。

ロダンは人間の裸形の本能を彫刻し地獄の門にいどむ。

ピカソは分裂と破壊をくりかえす。

 モーツァルトには、多分に佛教的なものがあり、

佛教的実存を顕現している。キルケゴールと共に、

20世紀のキリスト教神学者のカール・バルトは、

モーツァルトに傾倒し切っていた。ギリシャと

キリスト教の西洋の文化の圏内から抜け出せぬ

巨匠が多いなかで、モーツァルトは西洋、東洋を

越えた新たな可能性を開いた、音楽の真の

創造者である。

 レオナルド・ダ・ヴィンチの科学者的な知性

と比べて、セザンヌには佛教的な自然の見方がある。

純真・至誠・真の自己をつくるという信仰的真理

から出た、新しい絵画の真の創始者である。

ゴッホと共にセザンヌはキリスト者でもあるが。

 ロダン、ブールデル、ルオー、ピカソ等は

ギリシャ、ローマ、ヘヴライの文化圏にとどま

っているが、セザンヌ一人が、西洋から東洋の

文化圏にまで及んでいる。

 モーツァルトとセザンヌの二人の佛陀が、

近代の西洋に生まれたことは、人類の精神史上

甚だ重大なことである。

 インドのマハートマー(大聖)ガンディーは言う。

「キリスト教はよいがキリスト教徒は悪い」と。

何もキリスト教徒に限ったことではない。

 神(真理)の前へは一人で立つのであって、

宗派の徒党を組んで立つのではない。

   「自らを灯火とし、自らをよりどころとせよ、

他を頼りとしてはならない。法(真理)を灯火とし、

よりどころとせよ」との佛陀の言葉は、現代に

おいて人間個人の確立と尊厳の根本となっている。
 
                              
       1998.7.

■ 「実存」について   1

                   (全2回の内1回目)

                       遠藤剛熈 


  実存主義は、世界大戦の破壊と殺戮の

直後の人間不信の中から、人間存在の

ギリギリのところから立ち上がろうとする、

サルトル、マルセル、カミュ、ヤスパース、

ハイデッガーら西欧の思想家達によって

起こり、世界に広がったものであった。

私より数歳年長で終戦当時二十歳にもなって

いなかったベルナール・ビュフェの作品は、

その時代のリアルな証言であると思う。

以前の時代にルオーはミゼレーレを描き、

ピカソはゲルニカを描いたが、私が彼等を

知った時には、彼等はすでに晩年を迎えていた。

ジャコメッティは壮年だった。
 
 一九五〇年代初頭の戦後の京都の新制

高校生だった私に、「実存は本質に先行する」

という実存主義の言葉は、深くかつ新鮮な

ものと思われた。

 小林秀雄が「実存主義は釈迦、

イエスの思想だ」と言ったこともよく覚えている。

   実存と本質、即ち神・佛と人類は、

青年時代から今日までの私の芸術と人生に

あって、根本の重大な問題でありつづけている。

 戦没者と遺族の不幸に心を痛めたものの、

直接戦争を体験していない世代の私ではあるが、

実存的なものと人道的なものは、常に私の内部

にあって、それを今日の時代に、芸術と人生の

中で実践しなければならない重要な問題であり

つづけている。

 私が近・現代のヨーロッパの芸術家や思想家

に共感するのは、彼等の「神=個人=人類」

の思想である。日本人の私がヨーロッパ人の

仕事に共感するのは同じ人類だからであって、

国境や人種の違いは問題ではない。

 東アジアの島国の単一民族の日本人は、

個人の確立が弱く、人類的な仕事は盛り

上がっていない。ただし、奈良時代から

鎌倉時代までの、思想家の仕事や、芸術の

作品には、佛教による人類的なものがある。

 実存の孤独と不安と畏怖は、すでに

古代エジプトの彫像に見られるが、佛教と

キリスト教の実存の流れが、現代の実存に

まで続いている。近代のパスカル、

キルケゴール、モーツァルト、

ショーペンハウエル、ボオドレエル、

ニーチェ、セザンヌ、リルケ、ルオー等の

思想家や芸術家の仕事に見られる

キリスト教的実存と佛教的実存の交流が、

今日まで受け継がれている。

 釈迦は中部アジア、イエスは西アジアの

生まれであるから、そこから佛教とキリスト教

は他所へ広がったのである。

 実存的な出会いは突然人間にやってくる

もので、それは運命的なものであり、

信仰を決定づける力を持つ。神人、真人と

の邂逅で、人間は無明から開眼し、

生まれ変わる。新たな誕生である。

……
(次号へと続く)