志貴皇子

志貴皇子(しきのみこ、天智天皇7年(668年)? - 霊亀2年8月11日(716年10月4日))は、飛鳥時代末期から奈良時代初期にかけての皇族。芝基皇子または施基皇子(施基親王)、志紀皇子とも記す。天智天皇の第七皇子。位階は二品。


壬申の乱により、皇統が天武天皇の系統に移ったために、天智天皇系皇族であった彼は皇位継承とは全く無縁だった。政治よりも和歌等文化の道に生きた人生だったが、薨去から50年以上後の宝亀元年(770年)に、聖武天皇の娘井上内親王を后とし、母系では天武系となる他戸王を儲けていた六男の白壁王が、皇嗣に擁立され即位した(光仁天皇)ため、春日宮御宇天皇の追尊を受けた。かくして皇位に一切執着せず清らかな人生を終えた彼の系統が現在まで長く続く事となった。御陵所の「田原西陵」(奈良市矢田原町)にちなんで田原天皇とも称される。

清澄で自然鑑賞に優れた歌い手として万葉集に6首の歌を残している。代表的な歌として、「石(いは)ばしる垂水(たるみ)の上のさ蕨(わらび)の 萌え出づる春になりにけるかも」(岩の上を流れる滝の上に蕨が芽を出し、春を感じることよ)が有名。

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Q&A

mr110127さん

皇子と王の区別
里中満智子さんの「天上の虹」を読んで飛鳥時代のことに興味をもったのですが…
ここで質問があります。
男子が生まれると「皇子」か「王」ですが、この区別はいかに?
天智天皇の息子の大友皇子や川嶋皇子・志貴皇子はなぜに「皇子」なのでしょう?
母は采女(身分は低い)ですよね?
母が皇族出身でないけど「皇子」なのでしょうか?
でも采女が産んだ女子は皇族扱いされてますよね?(天武と額田王の間に産まれた十市皇女など)
なんかさっぱりわからないので、わかりやすく解説していただけると嬉しいです。
よろしくお願いします。




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namimakura0115さん


 天皇の親族の呼称については大宝律令以前と以後では扱い方が変わります。

<律令以前>
 皇子(皇女)と王(王女)の差は明確ではなく、同一人物に対して「王」「皇子」と混用している例もありました。この時代にはまだ天皇との親等の差で皇子と王を区別する慣習はなかったようです。

<律令以後>
 天武朝以降天皇制の確立に伴い「親王」の呼称が生まれ、大宝期以降は王と親王が峻別されるようになります。その後大宝律令によって皇族が明文で定義されました。その定義とは「天皇の兄弟及び子供を親王とし、それ以外を王とする。ただし、皇族として扱うのは天皇から五世の孫まで」というものです。
 ただし、時代が下るにつれて天皇の子供といえども親王宣下を受けないと「親王」扱いされないなど、形骸化していきました。

 というわけで、律令以前の皇族の定義は厳密に決められていたのではありませんでした。思うに、漫画では天皇の直接の息子・娘は(母親の身分に関わらず)皇子・皇女で、そうでない広義の皇族は王・王女と表記しているのではないでしょうか?



http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1110936911
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eplp37さん

「石ばしる垂水の上のさ蕨の萌え出づる春になりにけるかも」
という志貴皇子の歌には、彼の秘めた思いが隠されているような気がするのです。どんな解釈があるのか、ご存知の方はおられませんか?
この歌は小学校国語教科書にも掲載されています。

彼は天智天皇の子・光仁天皇の親です。結果的に彼は天智系を継承する橋渡しという形になった立場となります。彼の立場からして、天武系の子孫が行き詰まりはじめ、天智系が継承を奪回する見通しが立ったことを歌に詠みこんだのではないかと思えてきます。

「さ蕨」に天智系(つまり自分の子孫)、「萌えいずる」に天皇となって栄えるというような意味を託しているように思えてくるのですが、考えすぎでしょうか?




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yellowpinkpigletさん


それは感じます。この歌万葉集巻八の巻頭の歌ですよね。おもて歌にふさわしい歌ですよね。「いわばしる」という言葉の中にも皇位継承への強い期待を感じます。
「いわれ(磐余)、カムヤマトイワレビコ、さざれ石のいわおとなりて、天の岩楠船、岩長姫、磐船神社」とか「いわ」には古来から特別の意味がありますよね。

神武天皇以前に、磐余一帯を支配していた饒速日命(にぎはやひのみこと)
は磐樟船(いわくすぶね)に乗って哮が峰(たけるがみね)に天降ったという神話があります。

大王は磐余を征した者じゃないといけなかった。何千年も続いた磐石のてっぺんに立つ人が天皇です。皇位を意味する巌を走り落ちる滝水。その磐石のてっぺんに早蕨が萌え出して、いよいよ春到来です。

さわらび,
さざれ石、さくら、さかき、早乙女、早苗、さのつくものは神宿るものです。

万葉集の編集者も志貴皇子のわくわくした思いに気づいてて皇子を祝福したい思いでいっぱいだったでしょう。それで巻8の巻頭にもってきたのでしょう。

私自身、志貴皇子の子孫が皇位についたことがすごくうれしいんです。志貴皇子って名歌をいくつも詠んだ高貴な王子さまです。この人の子孫に皇統を継いで欲しい。

天智天皇の皇子に生まれたためいつ殺されてもおかしくない困難な時期を生きた人です。
「むささびは木末(こぬれ)求むとあしひきの山の猟師(さつを)に逢ひにけるかも」(万3-267)
この歌を詠んでますがむささびみたいに殺されないように注意深く生きて、子孫についに天皇を出した。息子は65にして天皇となる。



神奈備の石瀬(いはせ)の杜(もり)のほととぎす毛無(けなし)の岡にいつか来鳴かむ(万8-1466)

神のいます石瀬の森のほととぎすよ、毛無の岡にいつ来て鳴いてくれるのだろうか。

↑この歌にも志貴皇子の皇位奪回への願望を感じます。



http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1131096856
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foreverfieldofviewさん

「万葉集」の歌で一番好きなものを教えてください。できれば、理由もお聞かせください。


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yellowpinkpigletさん


大伴家持の春の歌が好きです。かたくりの花の歌が特に気に入ってます。

もののふの八十(やそ)乙女らが汲みまがふ寺井のうへの堅香子(かたかご)の花

我が屋戸のいささ群(むら)竹ふく風の音のかそけきこの夕へかも


孟宗竹を吹く風の音に耳をかたむけてる家持の姿がインテリらしくて素敵。


志貴皇子の歌

神奈備の石瀬の杜(もり)のほととぎす毛無(けなし)の岡にいつか来鳴かむ

志貴皇子は天智天皇の第3皇子でした。天武、持統朝の間はひっそりと暮らしていましたが息子がついに天皇になりました。のちに光仁天皇となった白壁王です。

いつか自分の子孫が王位につく日を夢見てたでしょう。神様の住む神奈備の岩瀬の杜のほととぎすが私の住む毛無(けなし)の岡に飛んできてくれたらなという歌です。

いわばしる垂水(たるみ)の上の早蕨(さわらび)の萌え出づる春になりにけるかも

いよいよ自分の上にも春が到来しつつある予感があふれています。志貴皇子、よかったね!!




高市黒人の一連の歌はどれもこれも素晴らしいです。中でも1,3,2の数字遊びのこの歌は素敵。

妹(いも)も我(あれ)も一つなれかも三河なる二見(ふたみ)の道ゆ別れかねつる(万3-276)

あなたも私ももう一体だからなんでしょね。三河の二見の別れ道で、別れようとしてなかなか別れられないのは。



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桓武天皇

第50代天皇
在位期間
781年4月30日 - 806年3月30日
元号 天応
延暦
先代 光仁天皇
次代 平城天皇
誕生 737年
崩御 806年4月9日
平安宮正寝柏原大輔
陵所 柏原陵
御名 山部
異称 日本根子皇統弥照尊
柏原帝
天國押撥御宇柏原天皇
父親 光仁天皇
母親 高野新笠
皇后 藤原乙牟漏
夫人 藤原旅子
藤原吉子
多冶比真宗
藤原小屎
子女 安殿親王(平城天皇)
朝原内親王
良岑安世
神野親王(嵯峨天皇)
大伴親王(淳和天皇)
高志内親王
葛原親王
伊予親王
他多数
皇居 平城宮・長岡宮・平安宮


桓武天皇(かんむてんのう、天平9年(737年) - 延暦25年3月17日(806年4月9日))は、日本の第50代天皇(在位:天応元年4月3日(781年4月30日) - 延暦25年3月17日(806年4月9日))。


諱は山部(やまべ)。崩御の後に和風諡号として日本根子皇統弥照尊(やまとねこあまつひつぎいやてらすのみこと)が、漢風諡号として桓武天皇が贈られた。また柏原(かしわばら)天皇(帝)、天国押撥御宇(あめくにおしひらきあめのしたしらす)柏原天皇とも呼ばれた。


白壁王(のちの光仁天皇)の第1王子として天平9年(737年)に産まれた。生母は百済の武寧王を祖とする王族の末裔とされる和氏(やまとうじ)出身の高野新笠。生母の出自が身分の低い帰化系氏族であったために当初は官僚としての出世が望まれて大学頭や侍従に任じられた(光仁天皇即位以前は山部王と称された)。

父王の即位後は親王宣下とともに四品が授けられ、後に中務卿に任じられたものの、生母の出自が低かったため立太子は予想されていなかった。しかし、藤原氏などを巻き込んだ政争により、異母弟の皇太子他戸親王の母である皇后井上内親王が宝亀3年3月2日(772年4月9日)に、他戸親王が同年5月27日(7月2日)に相次いで突如廃されたために、翌4年1月2日(773年1月29日)に皇太子とされた。その影には式家の藤原百川による擁立があったとされる。

天応元年4月3日(781年4月30日)には光仁天皇から譲位されて天皇位に就き、翌日の4日(5月1日)には早くも同母弟の早良親王を皇太子とした。同月15日(5月12日)に即位の詔を宣した。延暦2年4月18日(783年5月23日)に、藤原乙牟漏を皇后とした。皇后との間に、安殿親王(のちの平城天皇)と神野親王(のちの嵯峨天皇)を儲けた。また、夫人藤原旅子との間には大伴親王(のちの淳和天皇)がいる。

延暦4年(785年)9月頃には、皇太子早良親王を藤原種継暗殺の廉により廃太子の上で流罪に処し、親王が抗議のための絶食で配流中に薨去するという事件が起こった。これを受け、同年11月25日(785年12月31日)に安殿親王を皇太子とした。

在位中の延暦25年3月17日(806年4月9日)に崩御(死去)。

陵墓
桓武天皇陵

在世中に宇多野(うたの)への埋葬を希望したとされるが、卜占等の結果によって伏見の地が選ばれ、柏原陵(かしわばらのみささぎ)が営まれた。

柏原陵の在所は中世の動乱期において不明となっていたが、元禄年間の修陵で深草鞍ヶ谷町浄蓮華院境内の谷口古墳が考定され、その後幕末に改めて京都市伏見区桃山町の現陵の場所に定められた。尤もその根拠は乏しいと見られ、別に桃山丘陵の頂き付近に真陵の位置を求める説もあるため、確かな場所は不明とするほかない。

なお、後述するように平安京への遷都を行い、且つ同京最初の天皇となったことに因んで、明治28年(1895年)に平安遷都1100年を記念して桓武天皇を祀る平安神宮が創祀されている。

治世

平城京における肥大化した奈良仏教各寺の影響力を厭い、また天武天皇流が断絶し天智天皇流に皇統が戻ったこともあって、当時、秦氏が開拓していたものの、ほとんど未開の山城国への遷都を行う。初め延暦3年(784年)に長岡京を造営するが、天災や後述する近親者の不幸・祟りが起こり、その原因を天皇の徳がない証拠であり、天子の資格がないと民衆に判断されるのを恐れて、僅か10年後の同13年(794年)気学における四神相応の土地相より長岡京から艮方位(東北)に当たる場所に改めて平安京へ遷都した。また東北地方を侵略し蝦夷を服属させるため、坂上田村麻呂を征夷大将軍とする軍を送った。しかし晩年には、平安京の造作と東北への軍事遠征とがともに百姓を苦しめているとの藤原緒嗣(百川の長子)の建言を容れて、いずれも中断している(緒嗣と菅野真道との所謂徳政相論)。また、健児制を導入し、これにより百姓らの兵役の負担は解消されたが、この制度も間もなく機能しなくなり、やがて国衙軍制の成立を見ることになり、さらに後の武士の発生を準備することになった。

文化面では『続日本紀』の編纂を発案したとされる。また最澄と空海が唐から帰国し、日本の仏教に新たな動きをもたらしたのも桓武天皇治下で、最澄や空海の保護者として知られる一方、既存の仏教が政権に関与して大きな権力を持ちすぎたことから、いわゆる「南都六宗」と呼ばれた諸派に対しては封戸の没収など圧迫を加えている。また後宮の紊乱ぶりも言われており、それが後の薬子の変へと繋がる温床となったともされる。

その他、即位前の宝亀3年(772年)には井上内親王と他戸親王の、在位中の延暦4年(785年)には早良親王の不自然な薨去といった暗い事件が多々あった。井上内親王や早良親王の怨霊を恐れて同19年7月23日(800年8月16日)に後者に「崇道天皇」と追尊し、前者は皇后位を復すと共にその墓を山陵と追称したりしている。


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Q&A


bonkorebonkoreさん

桓武天皇の子孫と清和天皇の子孫はなぜ「臣籍降下」をしたのでしょうか。「臣籍降下」をしたら何かよいことでもあったのですか。もう1つ・・・それぞれ平氏と源氏というように姓が与えられたと思いますが
このときの「氏」というのはどういう意味でしょうか。
普通の姓を読む場合は、みなもとの~、たいらの~ですよね。




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masamiinさん


長くなりますがご了承ください。

まず、臣籍降下というものは、皇族の経済政策の一つです。
皇族は基本的に、今で言う皇室財産で生活していました。
養老令では、天皇の四世代目の子孫までが皇族とされていました。
つまり、四世代目までは皇族であり、皇室財産で生活していたんです。

しかしそう決めていても、やはり人間ですから、
前の方が書いてあるように、放っておくと皇族の数はどんどん増えていきます。
これが皇室財産を、ひいては国家財政も逼迫することは予想できるでしょう。
そのため、それを防ぐため臣籍降下は古代から行われてきました。
臣籍降下すればもうその人は皇族ではないですから、
皇室財産で世話してあげる必要もなくなるからです。

そういうわけで、奈良時代までは
天皇の子孫(主に三世代目や四世代目)の臣籍降下はよく行われていました。
敏達天皇の子孫の葛城王・佐為王兄弟が橘宿禰を与えられたことは有名ですね。
(葛城王は臣籍降下して橘諸兄)

ところが、平安時代になると、それ以前の大仏建立や全国国分寺・国分尼寺建立、
度重なる遷都や征夷事業などで国家財政が厳しくなっていきます。
このため、桓武天皇は思い切った行動にでます。
それが一世代目、つまり天皇の子の臣籍降下でした。
これまでは、一世代目での臣籍降下はありませんでした。
さすがに一世代目での臣籍降下は憚られていたんでしょう。
しかしそうも言っていられなくなったため、
桓武は光仁天皇の子(つまり自分の異母弟)の諸勝に「広根朝臣」を、
自分の子の岡成に「長岡朝臣」を、同じく子の安世に「良岑朝臣」を与え、
臣籍降下させました(良岑安世は六歌仙の一人として有名な僧正遍照の父)。

さらにその子、嵯峨天皇にはなんと50人の子どもがいましたが、
そのうち男女合わせて32人に一律に「源朝臣」を与えて臣籍降下させました。
これが史上初の源氏、「嵯峨源氏」です。

以後、源氏は嵯峨源氏も含め、全部で21種類生まれたとされています。
調べてみれば分かりますが、早い世代で臣籍降下したほうが出世に有利です。
例えば一世代目と二世代目の両方で臣籍降下が行われた仁明源氏の男子では、
一世代目の五人のうち、右大臣2人、参議1人と、半分以上が公卿に昇っています。
しかし二世代目で臣籍降下した男子で公卿に昇ったのは9人中わずか1人でした。
しかも正四位下参議どまりでした。
このようなことは他の源氏でもだいたい同じです。
清和源氏もやはり一世代目・二世代目両方で臣籍降下が行われましたが、
二世代目のほうが出世できていません。
*武家の清和源氏の祖、源経基は二世代目での臣籍降下です。
このことから、さらに世代が下ると出世はますます難しくなることが分かります。

そこで、桓武天皇の子葛原親王は、時の淳和天皇に願って、
自分の子どものうち高棟王らを臣籍降下してもらいました。
自分が臣籍降下しなかったのは、「親王」の臣籍降下が禁じられていたからです。
これが初の平氏、桓武平氏です。
特に平高棟は二世代目での臣籍降下ながら、大納言まで昇っています。
ただし、武家の桓武平氏の祖は高棟の甥、平高望の系統です。
つまり、三世代目での臣籍降下でした。
臣籍降下の時、高望の父高見王が既に亡くなっていた為と考えられます。
そのため、高望の系統は初めから出世はあまり望めませんでした。
まぁでも皇室財産での世話がなくなるまで代々皇族のままでいて、
世話がなくなって以後消えていくよりはマシでしょう。
こうして、高棟の子孫は公家として、高望の子孫は武家として栄えていきます。
平氏はこの桓武平氏を含め全部で4種類ありました。

中央で出世できなかった賜姓皇族(臣籍降下した元皇族)は
地方に下るか中央で下級貴族として細々と生きていくしかなかったんです。

この後、一、二世代目には主に「源朝臣」が、
三、四世代目には「平朝臣」が多かったため、源氏のほうが格上とされていました。
高棟のように二世代目で臣籍降下した平氏は少数派です。

しかし、後に臣籍降下に代わる新たな経済政策として、
出家させるという方法が採られるようになってからは、
臣籍降下は経済的要素より政治的要素の方が大きくなるとともに少なくなり、
近世初期の正親町源氏を最後に行われなくなりました。

あと、皇族でも官職につくことはできます。
長屋王は左大臣まで、桓武のいとこ神王(みわおう)は右大臣まで昇りましたし、
その他にも皇族で何らかの官職に就いたことのある人はたくさんいました。
他の普通の氏の人々と同じようにどこかの国司に就いていた皇族は結構います。

凄く長くなってすみません。。。(´・ω・`)


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tanshizu2001さん

桓武天皇が京都に都を移した理由はなんですか?京都が選ばれた理由をわかりやすく教えてください。他に候補地はあったのですか?




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onia222さん


桓武天皇に限らず、歴代天皇は「一代ごとの遷宮方式」に則って都を遷して来ました。彼の場合は、以下のように父・光仁天皇の命日方位に遷宮して其処を「平安京」と名付けた訳です。

元の宮は長岡でしたので、其処から北の方位は、今の京都以外の候補地は考えられませんでした。
都を遷すと云う国事行為は、それほど厳格な方位と暦法に拘束されたものでした。

先ず■12/23日が光仁天皇が崩御した。ユリウス暦にして其れは今の1/15日に当たる。ただ仏教では西暦よりも旧暦で法事をするので、例えば大安寺(奈良市大安寺町)0742-61-6312では年明けの1/23日に光仁会として、62歳で皇位についた光仁天皇の御忌法要を行い、また祈祷後に開運長寿に因む行事としてガン封じに効くという笹酒を振舞う。

さて■平安遷都の理由は・・・・・・・・長岡から平安宮に遷宮・遷都となったのは延暦13/10/22、つまり今の「時代祭り」
として知られるが、では其の遷都の意味はと言えば謎とされているため此処で回答を示す。

其の前の長岡京については、聖武の光明皇后(藤原安宿媛)が760/7/23日、つまり6/7日に亡くなったので、逆方位に遷座して彼女の御魂を迎える場とする目的からでした。このため50桓武天皇(山部皇子・日本根子皇統弥照尊・柏原天皇)が彼の即位後、初めて長岡に遷都して其の祭り事を主宰する立場となった。

所で歴代天皇はこの頃、46孝謙天皇、47淳仁天皇(淡路廃帝=10/26参照)、48称徳天皇があるが、取り分け先代の4
9光仁天皇が天応1/12/丁未23(782/1/11-1/15)に亡くなっているため、次の祭り事として桓武天皇が長岡宮(山
城)から光仁の命日(ユリウス1/15)方位に平安宮を造営した。

1/15の光仁の命日・13回忌に平安宮で弔う意味から延暦13(794)10/22に桓武が天皇として再び遷宮して平安
京とした事になります。だが光仁天皇陵については奈良市・日笠の田原陵が元禄時代に分かった陵として今治定されている。

なので此処との関係を吟味した上で論じなければ先の論理も客観性がないと言われるだろう。ただ此処は言わば土饅頭であって天皇陵として釣り合いが取れない。既に桓武天皇がこの頃、大和に固執して広岡山から田原東に改葬したとも言われるが、

何故広岡や田原なのかについても謎であり、其の謎が解けても命日と方角が合わない所なので何ら決め手とはならないだろうし、折角だが要するにお話にならない。従って本論に戻る。

光仁は生前に桓武に譲位している。つまり平城ではなく、一緒に長岡に移って来ていて崩御されたと推定できる。だから桓武としては長岡から光仁の命日方位に向かった。其の基点が今の向日神社・向日市・長岡京であり、向かった先が此の「平安京」になる。但し今の御所ではなくて当時の内裏は今の中京区・旧大極殿跡である。

また其の旧大極殿跡から更に進めば南平岡町がある。平岡は大和ではなくて此処(左京区)に有った。つまり其の近く
に旧・光仁陵があった筈(1/11を参照)です。因みに長岡から見て、命日の逆方位は長岡天満宮、水無瀬、大阪・東成
区へと至る。またもう1つ理由がある。高野新笠である。

彼女は光仁天皇(1/11日を参照)の后として桓武天皇、早良親王などを生んだが、延暦8/12/28崩御(平安遷都の4年前
でした)。彼女の陵が長岡京の北に指定されているが、其れは生憎別人の墓である。光仁天皇陵をユリウス暦の方位
の平安京・平岡に造ったので、彼女の場合もユリウス暦で見よう。そうすれば790/U1/17となる。

其の方位に向かえば図らずも光仁陵の近くになる。今の幡枝町の北稜高校の東の小山に至る。また其の先には岩倉実相院がある。

因みにhttp://www.jissoin.com/about/index.html#rekishi「実相院」から引用すれば、此処は元天台宗の寺門派(天台宗には山門派と寺門派があります)の単立寺院で、ご本尊は鎌倉時代に作られたと伝えられる木造立像の不動明王で
す。実相院は昔から、岩倉門跡とか、岩倉御殿とも呼ばれています。その理由は実相院が門跡寺院であるからです。

門跡寺院とはその寺院の住職を天皇家の血を引く方々が務められていた、格式の高い寺院のことで、代々皇室から大きな支援を受けて栄えていました(引用以上)。また手前には上賀茂神社がある。此処は昔は神宮寺だった。つまり光仁と彼女を弔う為に桓武の平安遷都となった原点である。

つまり神社と言うより霊廟だった。よって以後、賀茂齋院と呼ばれて皇子が居つく所となり、伊勢神宮に並ぶ権威となったと思われる。ともあれ、やがて桓武自身も806/4/9-4/13に崩御した。よって其れが明治以来の「時代祭り」の起源と重なる。時代祭りは桓武天皇の命日(3/17~4/9~4/17)の略逆の10/22にもなるのです。



http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1244527837
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kony20062002さん

桓武天皇は2度の遷都や度重なる蝦夷征討軍の派遣・律令制度の改良など、在位26年の中で強力なリーダーシップを発揮していますが、その根元となったものはなんなのでしょうか。





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wonderful_gogoさん


「律令制度の改良」が792年の朝廷正規軍の廃止のことであれば、桓武天皇が行ったこれら2度に亘る遷都や蝦夷征伐、正規軍の廃止の目的はすべて、無実の罪で死に追いやった実弟・早良(さわら)皇太子の怨霊から逃れるためです。

そもそも桓武天皇が都を移す決心をした理由は、聖武天皇が莫大な資本を投下して作った平城京および奈良の大仏が子孫繁栄に何の役にも立たず、それどころか聖武天皇の次の称徳天皇で天武系の血縁が絶えてしまったからです。その結果、皇位は正しい血筋である天智系の光仁天皇に戻り、次いで即位した桓武天皇はこの縁起の悪い都を捨てて、新しく自分の都を作ることにしたのです。これが長岡京です。

ところが、その長岡京の建設中に建設責任者の藤原種継が暗殺されるという事件が起き、犯人の一人として桓武天皇の実弟の早良皇太子が捕えられ、皇太子の位を剥奪のうえ淡路島に流罪となりました。この裏には以前から息子の安殿親王を皇太子にしたがっていた桓武天皇の陰謀があったと言われていますが、真相は定かではありません。早良皇太子は無罪を叫んで絶食し、護送中に亡くなりました。そしてその遺骸はそのまま流刑地の淡路島に送られ、そこで捨てられました。

その後、桓武天皇の周囲で次々と人が亡くなり、息子の安殿親王も病気がちで、まさかと思った桓武天皇は陰陽師にその原因を占わせたところ、早良皇太子のタタリであるという結果が出ました。桓武天皇はかつて聖武天皇の妃の光明皇后の兄弟4人が、同じように無実の罪で殺された長屋王のタタリによって次々に死んだことを知っており、その恐怖におびえ、事件現場となった長岡京を捨てて、早良皇太子の怨霊から逃れるために風水説を取り入れた都を新たに作ることを決意したのです。これが平安京です。

そして桓武天皇は平安京の建設決定と前後して、律令に定められている朝廷正規軍の廃止を決定しました。これは一種の平和宣言です。早良皇太子の霊に対して、自分たちは戦わないから怨霊たちもここに入って来ないでくれ、というアピールです。

蝦夷征伐も怨霊封じのためです。蝦夷(東北地方)は平安京から見て北東の方角にあり、陰陽道や風水説で北東は「艮(うしとら)」、つまり鬼門に当たります。この方角にいる者は天皇家の安泰を乱す「敵」であり、早良親王の怨霊と同様に自分たちに呪いをもたらすと考え、そのため桓武天皇は征夷大将軍・坂上田村麻呂に命じて蝦夷を徹底的に征伐し、降伏のため自分の元にやって来た蝦夷の大将・アテルイを死刑(斬首)にしました。

ちなみに蝦夷は当時日本民族とは見なされていませんでしたので、いくら蝦夷を征伐しても(殺しても)怨霊になる心配はありませんでした。

以上、桓武天皇が行ったこれらすべての行動の根源は「無実の罪で殺した弟・早良皇太子の怨霊から逃れるため」なのです。



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光仁天皇

光仁天皇(こうにんてんのう、和銅2年10月13日(709年11月18日) - 天応元年12月23日(782年1月11日))は、第49代天皇(在位:宝亀元年10月1日(770年10月23日) - 天応元年4月3日(781年4月30日))。


天智天皇の第7皇子・施基親王(志貴皇子)の第6子で白壁王と称した。母は紀橡姫。8歳で父が死亡したためか、初叙(天平9年(737年)従四位下)が29歳と大変遅かった。

天平勝宝元年(749年)、聖武天皇が譲位し皇太子阿倍内親王が受禅、孝謙天皇として即位した。これにより、同じく聖武天皇の皇女である井上内親王・不破内親王姉妹の腹から、阿倍皇太子の地位を脅かしかねない男子後継者が生まれる可能性を警戒されることは無くなった。よって、井上内親王・不破内親王姉妹にも、安心して伴侶を決められる機会が与えられたことになる。天平勝宝元年(749年)~天平勝宝4年(752年)頃になって、斎宮を退任していた井上内親王は、当時、権力争いに巻き込まれる恐れの最もない白壁王と結婚することになった。天平勝宝6年(754年)、井上内親王38歳の時、酒人内親王が誕生。それからにわかに昇進を速め、天平宝字3年(759年)従三位に叙せられる。天平宝字5年(761年)井上内親王45歳の時、他戸親王(第四皇子)が誕生。天平宝字6年(762年)に中納言に任ぜられる。

天平宝字8年(764年)には恵美押勝の乱鎮圧に功績を挙げて称徳天皇の信任を得て、天平神護2年(766年)には大納言に昇進した。だが、度重なる政変で多くの親王・王が粛清されていく中、専ら酒を飲んで日々を過ごす事で凡庸を装って難を逃れたと言われている。

神護景雲4年(770年)、称徳天皇が崩御する。独身の女帝に後継者はなく、度重なる政変による粛清劇によって天武天皇の嫡流にあたる皇族がいなかった。ただ、井上内親王は聖武天皇の皇女であり、白壁王との間に生まれた他戸王(他戸親王)は女系ではあるものの天武天皇系嫡流の血を引く男性皇族の最後の一人であった。このことから天皇の遺宣(遺言)に基づいて立太子が行われ、同年10月1日、62歳の白壁王は大極殿で即位することとなった。元号は宝亀と改められた(なお、62歳での即位は継体天皇(第26代)以降では現在の今上天皇を含め最高齢である)。

称徳天皇崩御の際に左大臣藤原永手、右大臣吉備真備、参議藤原宿奈麻呂、同藤原縄麻呂、同石上宅嗣、近衛大将藤原蔵下麻呂らによる協議が行われたと『続日本紀』は伝えている。「百川伝」を引用する『日本紀略』などの記述は、この協議で天武天皇系の長親王の子である文室浄三、次いでその弟大市を推した真備と、白壁王を推す藤原永手・宿奈麻呂らで対立があり、藤原百川の暗躍によって白壁王の立太子が実現したと伝えている。

即位後、井上内親王を皇后とし、他戸親王を皇太子とするが、宝亀3年(772年)3月2日、密告により皇后である井上内親王が呪詛による大逆を図ったとして罪し、皇后を廃した。5月27日、皇太子の他戸親王も廃し庶人とした。翌 宝亀4年(773年)高野新笠から生まれた山部親王を立てて皇太子とした。のちの桓武天皇である。この背景には、藤原百川ら藤原式家の兄弟と彼らが擁立する山部親王の陰謀があったとされる。さらに、宝亀4年(773年)10月14日、天皇の同母姉で二品の難波内親王が薨去されたことから、10月19日井上内親王は難波内親王を呪詛し殺害した巫蠱・厭魅の罪で、大和国宇智郡の没官の宅に幽閉され、連座して王に落とされた他戸親王も ともに幽閉されてしまう。やがて、宝亀6年4月27日(775年5月30日)、二人とも変死という運命を辿る。これによって天武天皇の皇統は完全に絶えた。ところが、藤原式家の兄弟も、かつて皇后であった井上内親王の変死後に相次いで亡くなることになる。

宝亀6年(775年)、藤原蔵下麻呂(九男)、42歳で没。
宝亀8年(777年)9月18日、藤原良継(次男)没。藤原清成(三男)没
宝亀10年(779年)7月9日、藤原百川(八男)没。
天応2年(782年)、藤原田麻呂(五男)没。

光仁天皇の即位について藤原百川とともに便宜を謀った藤原蔵下麻呂が急死したことを受け、宝亀7年(776年)、祟りを恐れた光仁天皇自身により秋篠寺建立の勅願を発せられる。開基は善珠僧正。(山部皇太子の第一皇子として出生した安殿親王(後の平城天皇)も病を得られるが、善珠僧正自ら回復祈願を行い見事平癒した。)

だが、天変地異は続いた。

宝亀6年 7月から8月、黒鼠の大群・雹・飢饉・野狐・風雨。 8月22日、伊勢・尾張・美濃で風水害。伊勢斎宮を修理。 9月20日、霖雨。(幾日も降り続く雨) 10月6日、地震。

翌 宝亀7年 2月6日、流星。 4月1日、日食。 6月4日、太白、昼に現れる(国の乱れる凶兆)。 6月18日、京と畿内で大祓を行う。旱魃のため黒毛の馬を丹生川上神に奉献する。 7月19日、西大寺西塔に落雷。 8月13日、大風。 8月15日、全国で蝗の害。 9月、毎夜瓦・石・土塊が内豎所の庁舎や京中の家々の屋根に落下。20日余り続く。 10月9日、地震。

翌 宝亀8年2月28日、畿内五ヵ国で疫神を祀る。 2月30日、日食。 3月19日、宮中で頻りに怪異、大祓を行う。 4月、雹・氷が降る。また太政官・内裏の建物に落雷。 5月、霖雨。(幾日も降り続く雨) 8月、霖雨。

宝亀8年(777年)11月1日、光仁天皇が不豫(病)となり、12月、山部親王(桓武天皇)も死の淵をさまよう大病を得た。この年の冬、雨が降らず井戸や河川が涸れ果てた。『水鏡』は記す。「冬雨も降らずして世の中の井の水みな絶えて宇治川の水 既(すで)に絶えなむとする事侍(はべ)りき」。

これらの事が井上内親王の怨霊によるものと考えられ、皇太子不例(病)の3日後の同年12月28日、井上内親王の遺骨を改葬し墓を御墓と追称、墓守一戸を置くことが決定した。

宝亀9年に入り、皇太子平癒のため東大寺・西大寺・西隆寺の三寺で誦経が行われた。
宝亀9年 3月24日、皇太子が病に臥して、病状思わしくない状態が何ヶ月も続いていることから、天下に徳のある政(まつりごと)を示すために大赦の勅を発することとなった。
宝亀9年 3月27日、皇太子回復のため、幣帛を伊勢神宮と天下の諸社に奉納された。畿内と畿外の各境界で疫神を祀らせた。
宝亀9年10月25日、皇太子自ら病気平癒の御礼のため伊勢へ。

70歳を超えても政務に精励したが、天応元年(781年)2月、第一皇女能登内親王に先立たれてから心身ともに俄かに衰え、同年4月3日、病を理由に皇太子に譲位。同年12月23日、崩御。皇后死後、6年と8ヶ月のことであった。

和風諡号は「天宗高紹天皇」(あめむねたかつぎのすめらみこと)である。

死の直後にあたる天応2年(782年)閏正月頃、天武天皇の曾孫による氷上川継の乱と後に呼称されるクーデタ未遂事件が起きた(この年の8月、延暦元年に改元)。父は恵美押勝の乱で戦死した塩焼王、母は不破内親王であった。

延暦元年(782年)6月14日、人臣の最頂点である「左大臣正二位兼大宰帥藤原朝臣魚名」までもが加担していたとして免大臣とされ、その子「正四位下鷹取」は石見介に、「従五位下末茂」は土左介へ、「従五位下真鷲」がそれぞれ左遷された。藤原魚名は翌年7月25日頓死することになる。光仁天皇の死後も政が落ち着くことは決して無かった。
天皇陵

崩御の翌年、広岡山陵に葬られ、延暦5年(786年)、田原陵に改葬された。 広岡山陵(広崗陵、廣高陵)については以下の説がある。

奈良市広岡町に所在を求める説。(『大和志』『大日本地名辞書』『和州旧跡幽考』他)
聖武天皇佐保山南陵の西側(奈良市法蓮町)に「広岡」の地名が残っていたことから、そこに求める説。

御陵・田原東陵(たはらのひがしのみささぎ)住所:奈良市日笠町王ノ塚

桓武天皇が文武百官を伴い平安京から南都に赴き、先帝光仁天皇の一周忌の齋会法要を営んだとされる「続日本記」の故事に因んで、奈良市大安寺では、毎年1月23日「光仁会」という祭事が開催されている。風雅な青竹づくしの祭儀で、不遇な白壁王時代に竹を切り竹筒に酒を注いで嗜まれた足跡を偲ぶ。中国の故事に言うところの「林間煖酒焼紅葉(林間に酒を温め紅葉を焚く)」風流である。長寿をもたらす「癌封じの笹酒」として振舞われる。

光仁天皇陵から道を挟んで向かい側に江戸時代後期の士分(武士)、歴史地理学者で「平城宮大内裏跡坪割図」を作成したり大和の皇陵の調査・修復に尽力した北浦定政(1817年-1871年)の顕彰碑と墓がある。

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Q&A


marimomarimo314さん

光仁、光孝、光格天皇など、傍系の皇族が即位した時に「光」の字が賜号に多く使われるみたいです、また南北朝時代の北朝の天皇にも多く「光」の字が使われています。 賜号の「光」の文字にはどういう意味があるのでしょうか?
また、「光」が前につく場合と、崇光、称光天皇のように後につく場合とでは、意味に違いはありますか?




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isbn978_4_915512_66_7さん


諡号(追号)に”光”の字を付けられるのは
それまでの系統とは別な系統の天皇が即位し
その系統の正統性を主張するもの

と解釈することができるのではないかと思います。

”光”の字を贈られた最初の天皇
光仁天皇
ですが
それまで続いていた天武系の天皇から
天智系の天皇が復帰、復活し即位した天皇です。

自身の正統性、つまり天智系が正統であることを主張するために
漢朝を再興し、後漢王朝を建国した
公武帝
になぞらえたものだと解釈することができます。

北朝の天皇に”光”の字を使用したのも
南朝ではなく北朝の天皇こそ正統であると主張するものである
と解釈することができると思います。


光孝の場合には
それまで続いた文徳天皇の系統から新たな系統へ移ったこと
光格天皇の場合には
それまでの中御門天皇の系統から新たな系統に移ったことを
光仁天皇(さらには光武帝)になぞらえて贈られたものであると解釈することができると思います。



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nobushimeihoさん

光仁天皇は天智天皇の孫なのに天皇になれたのはなぜですか?




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goverment525さん


天平16年(744年)聖武天皇の皇女・井上内親王を妃としたことからにわかに昇進を速め、天平宝字3年(759年)従三位に叙せられ、天平宝字6年(762年)に中納言に任ぜられる。天平宝字8年(764年)には恵美押勝の乱鎮圧に功績を挙げて称徳天皇の信任を得て、天平神護2年(766年)には大納言に昇進した。だが、度重なる政変で多くの親王・王が粛清されていく中、専ら酒を飲んで日々を過ごす事で凡庸を装って難を逃れたといわれている。

神護景雲4年(770年)、称徳天皇が崩御する。独身の女帝に後継者はなく、度重なる政変による粛清劇によって天武天皇の嫡流にあたる皇族がいなかった。ただ、井上内親王は聖武天皇の皇女であり、白壁王との間に生まれた他戸王は女系ではあるものの天武天皇系嫡流の血を引く男性皇族の最後の一人であった。このことから天皇の遺宣(遺言)に基づいて立太子が行われ、白壁王は62歳で即位することとなった。なお、62歳での即位は継体天皇(第26代)以降では現在の今上天皇を含め最高齢である。

称徳天皇崩御の際に左大臣藤原永手、右大臣吉備真備、参議藤原宿奈麻呂、同藤原縄麻呂、同石上宅嗣、近衛大将藤原蔵下麻呂らによる協議が行われたと『続日本紀』は伝えている。「百川伝」を引用する『日本紀略』などの記述は、この協議で天武天皇系の長親王の子である文室浄三、次いでその弟大市を推した真備と、白壁王を推す藤原永手・宿奈麻呂らで対立があり、藤原百川の暗躍によって白壁王の立太子が実現したと伝えている。この「百川伝」の記述については後述する他戸廃太子の事情が誤って伝えられたとする河内祥輔の説が広く支持されている。



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yabyaahoguさん

光仁天皇を擁立した人は誰ですか?

日本史Bの問題です。

補足百川は藤原式家でしょうか?
すみません(-。-;



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azumaebisuboronjiさん


光仁天皇(中納言・白壁王)を擁立したのは、右大弁・藤原百川と左大臣・藤原永手(宿奈麻呂・百川の従兄弟)と参議・藤原宿奈麻呂(百川の兄)の3人です。

称徳天皇(孝謙天皇)の崩御後、藤原宿奈麻呂・藤原百川・藤原永手の3人は白壁王(光仁天皇)を推したが、右大臣・吉備真備は“文室大市”や“文室浄三”を推し対立する。
そこで永手らは、偽造した白壁王を指名する称徳天皇の遺詔を読み上げて、白壁王を即位させる事に成功する。

※藤原百川は、光仁天皇の即位後に大宰帥・参議に任じられ、死後は従二位・右大臣・正一位・太政大臣を追贈される。
※藤原宿奈麻呂は、光仁天皇の即位後に中納言に任じられ藤原良継と改名し、内大臣として死去後は従一位を追贈される。
※藤原永手は、光仁天皇の即位後に正一位に昇叙し、死後は太政大臣を追贈される。

≪補足≫
藤原宿奈麻呂・百川兄弟は【藤原式家】で、藤原永手は【藤原北家】です。

高校の勉強に関わらず、こういう機会にプラスαで学ぶ事も悪くないと思います。
実際、質問者は補足で藤原百川の家系を聞いてるし、色々と事情を知った方が歴史は面白いでしょう♪
杓子定規で歴史を勉強したり、知識や価値感を押し付けるのはツマラン事です。

質問者は、日本史Bの勉強を頑張ってください。



http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1463449744
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