志貴皇子
志貴皇子(しきのみこ、天智天皇7年(668年)? - 霊亀2年8月11日(716年10月4日))は、飛鳥時代末期から奈良時代初期にかけての皇族。芝基皇子または施基皇子(施基親王)、志紀皇子とも記す。天智天皇の第七皇子。位階は二品。
壬申の乱により、皇統が天武天皇の系統に移ったために、天智天皇系皇族であった彼は皇位継承とは全く無縁だった。政治よりも和歌等文化の道に生きた人生だったが、薨去から50年以上後の宝亀元年(770年)に、聖武天皇の娘井上内親王を后とし、母系では天武系となる他戸王を儲けていた六男の白壁王が、皇嗣に擁立され即位した(光仁天皇)ため、春日宮御宇天皇の追尊を受けた。かくして皇位に一切執着せず清らかな人生を終えた彼の系統が現在まで長く続く事となった。御陵所の「田原西陵」(奈良市矢田原町)にちなんで田原天皇とも称される。
清澄で自然鑑賞に優れた歌い手として万葉集に6首の歌を残している。代表的な歌として、「石(いは)ばしる垂水(たるみ)の上のさ蕨(わらび)の 萌え出づる春になりにけるかも」(岩の上を流れる滝の上に蕨が芽を出し、春を感じることよ)が有名。
日経225先物オーバーナイト配信・EO225
Q&A
mr110127さん
皇子と王の区別
里中満智子さんの「天上の虹」を読んで飛鳥時代のことに興味をもったのですが…
ここで質問があります。
男子が生まれると「皇子」か「王」ですが、この区別はいかに?
天智天皇の息子の大友皇子や川嶋皇子・志貴皇子はなぜに「皇子」なのでしょう?
母は采女(身分は低い)ですよね?
母が皇族出身でないけど「皇子」なのでしょうか?
でも采女が産んだ女子は皇族扱いされてますよね?(天武と額田王の間に産まれた十市皇女など)
なんかさっぱりわからないので、わかりやすく解説していただけると嬉しいです。
よろしくお願いします。
ベストアンサーに選ばれた回答
namimakura0115さん
天皇の親族の呼称については大宝律令以前と以後では扱い方が変わります。
<律令以前>
皇子(皇女)と王(王女)の差は明確ではなく、同一人物に対して「王」「皇子」と混用している例もありました。この時代にはまだ天皇との親等の差で皇子と王を区別する慣習はなかったようです。
<律令以後>
天武朝以降天皇制の確立に伴い「親王」の呼称が生まれ、大宝期以降は王と親王が峻別されるようになります。その後大宝律令によって皇族が明文で定義されました。その定義とは「天皇の兄弟及び子供を親王とし、それ以外を王とする。ただし、皇族として扱うのは天皇から五世の孫まで」というものです。
ただし、時代が下るにつれて天皇の子供といえども親王宣下を受けないと「親王」扱いされないなど、形骸化していきました。
というわけで、律令以前の皇族の定義は厳密に決められていたのではありませんでした。思うに、漫画では天皇の直接の息子・娘は(母親の身分に関わらず)皇子・皇女で、そうでない広義の皇族は王・王女と表記しているのではないでしょうか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1110936911
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eplp37さん
「石ばしる垂水の上のさ蕨の萌え出づる春になりにけるかも」
という志貴皇子の歌には、彼の秘めた思いが隠されているような気がするのです。どんな解釈があるのか、ご存知の方はおられませんか?
この歌は小学校国語教科書にも掲載されています。
彼は天智天皇の子・光仁天皇の親です。結果的に彼は天智系を継承する橋渡しという形になった立場となります。彼の立場からして、天武系の子孫が行き詰まりはじめ、天智系が継承を奪回する見通しが立ったことを歌に詠みこんだのではないかと思えてきます。
「さ蕨」に天智系(つまり自分の子孫)、「萌えいずる」に天皇となって栄えるというような意味を託しているように思えてくるのですが、考えすぎでしょうか?
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yellowpinkpigletさん
それは感じます。この歌万葉集巻八の巻頭の歌ですよね。おもて歌にふさわしい歌ですよね。「いわばしる」という言葉の中にも皇位継承への強い期待を感じます。
「いわれ(磐余)、カムヤマトイワレビコ、さざれ石のいわおとなりて、天の岩楠船、岩長姫、磐船神社」とか「いわ」には古来から特別の意味がありますよね。
神武天皇以前に、磐余一帯を支配していた饒速日命(にぎはやひのみこと)
は磐樟船(いわくすぶね)に乗って哮が峰(たけるがみね)に天降ったという神話があります。
大王は磐余を征した者じゃないといけなかった。何千年も続いた磐石のてっぺんに立つ人が天皇です。皇位を意味する巌を走り落ちる滝水。その磐石のてっぺんに早蕨が萌え出して、いよいよ春到来です。
さわらび,
さざれ石、さくら、さかき、早乙女、早苗、さのつくものは神宿るものです。
万葉集の編集者も志貴皇子のわくわくした思いに気づいてて皇子を祝福したい思いでいっぱいだったでしょう。それで巻8の巻頭にもってきたのでしょう。
私自身、志貴皇子の子孫が皇位についたことがすごくうれしいんです。志貴皇子って名歌をいくつも詠んだ高貴な王子さまです。この人の子孫に皇統を継いで欲しい。
天智天皇の皇子に生まれたためいつ殺されてもおかしくない困難な時期を生きた人です。
「むささびは木末(こぬれ)求むとあしひきの山の猟師(さつを)に逢ひにけるかも」(万3-267)
この歌を詠んでますがむささびみたいに殺されないように注意深く生きて、子孫についに天皇を出した。息子は65にして天皇となる。
神奈備の石瀬(いはせ)の杜(もり)のほととぎす毛無(けなし)の岡にいつか来鳴かむ(万8-1466)
神のいます石瀬の森のほととぎすよ、毛無の岡にいつ来て鳴いてくれるのだろうか。
↑この歌にも志貴皇子の皇位奪回への願望を感じます。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1131096856
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foreverfieldofviewさん
「万葉集」の歌で一番好きなものを教えてください。できれば、理由もお聞かせください。
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yellowpinkpigletさん
大伴家持の春の歌が好きです。かたくりの花の歌が特に気に入ってます。
もののふの八十(やそ)乙女らが汲みまがふ寺井のうへの堅香子(かたかご)の花
我が屋戸のいささ群(むら)竹ふく風の音のかそけきこの夕へかも
孟宗竹を吹く風の音に耳をかたむけてる家持の姿がインテリらしくて素敵。
志貴皇子の歌
神奈備の石瀬の杜(もり)のほととぎす毛無(けなし)の岡にいつか来鳴かむ
志貴皇子は天智天皇の第3皇子でした。天武、持統朝の間はひっそりと暮らしていましたが息子がついに天皇になりました。のちに光仁天皇となった白壁王です。
いつか自分の子孫が王位につく日を夢見てたでしょう。神様の住む神奈備の岩瀬の杜のほととぎすが私の住む毛無(けなし)の岡に飛んできてくれたらなという歌です。
いわばしる垂水(たるみ)の上の早蕨(さわらび)の萌え出づる春になりにけるかも
いよいよ自分の上にも春が到来しつつある予感があふれています。志貴皇子、よかったね!!
高市黒人の一連の歌はどれもこれも素晴らしいです。中でも1,3,2の数字遊びのこの歌は素敵。
妹(いも)も我(あれ)も一つなれかも三河なる二見(ふたみ)の道ゆ別れかねつる(万3-276)
あなたも私ももう一体だからなんでしょね。三河の二見の別れ道で、別れようとしてなかなか別れられないのは。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1039146230
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志貴皇子(しきのみこ、天智天皇7年(668年)? - 霊亀2年8月11日(716年10月4日))は、飛鳥時代末期から奈良時代初期にかけての皇族。芝基皇子または施基皇子(施基親王)、志紀皇子とも記す。天智天皇の第七皇子。位階は二品。
壬申の乱により、皇統が天武天皇の系統に移ったために、天智天皇系皇族であった彼は皇位継承とは全く無縁だった。政治よりも和歌等文化の道に生きた人生だったが、薨去から50年以上後の宝亀元年(770年)に、聖武天皇の娘井上内親王を后とし、母系では天武系となる他戸王を儲けていた六男の白壁王が、皇嗣に擁立され即位した(光仁天皇)ため、春日宮御宇天皇の追尊を受けた。かくして皇位に一切執着せず清らかな人生を終えた彼の系統が現在まで長く続く事となった。御陵所の「田原西陵」(奈良市矢田原町)にちなんで田原天皇とも称される。
清澄で自然鑑賞に優れた歌い手として万葉集に6首の歌を残している。代表的な歌として、「石(いは)ばしる垂水(たるみ)の上のさ蕨(わらび)の 萌え出づる春になりにけるかも」(岩の上を流れる滝の上に蕨が芽を出し、春を感じることよ)が有名。
日経225先物オーバーナイト配信・EO225
Q&A
mr110127さん
皇子と王の区別
里中満智子さんの「天上の虹」を読んで飛鳥時代のことに興味をもったのですが…
ここで質問があります。
男子が生まれると「皇子」か「王」ですが、この区別はいかに?
天智天皇の息子の大友皇子や川嶋皇子・志貴皇子はなぜに「皇子」なのでしょう?
母は采女(身分は低い)ですよね?
母が皇族出身でないけど「皇子」なのでしょうか?
でも采女が産んだ女子は皇族扱いされてますよね?(天武と額田王の間に産まれた十市皇女など)
なんかさっぱりわからないので、わかりやすく解説していただけると嬉しいです。
よろしくお願いします。
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namimakura0115さん
天皇の親族の呼称については大宝律令以前と以後では扱い方が変わります。
<律令以前>
皇子(皇女)と王(王女)の差は明確ではなく、同一人物に対して「王」「皇子」と混用している例もありました。この時代にはまだ天皇との親等の差で皇子と王を区別する慣習はなかったようです。
<律令以後>
天武朝以降天皇制の確立に伴い「親王」の呼称が生まれ、大宝期以降は王と親王が峻別されるようになります。その後大宝律令によって皇族が明文で定義されました。その定義とは「天皇の兄弟及び子供を親王とし、それ以外を王とする。ただし、皇族として扱うのは天皇から五世の孫まで」というものです。
ただし、時代が下るにつれて天皇の子供といえども親王宣下を受けないと「親王」扱いされないなど、形骸化していきました。
というわけで、律令以前の皇族の定義は厳密に決められていたのではありませんでした。思うに、漫画では天皇の直接の息子・娘は(母親の身分に関わらず)皇子・皇女で、そうでない広義の皇族は王・王女と表記しているのではないでしょうか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1110936911
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eplp37さん
「石ばしる垂水の上のさ蕨の萌え出づる春になりにけるかも」
という志貴皇子の歌には、彼の秘めた思いが隠されているような気がするのです。どんな解釈があるのか、ご存知の方はおられませんか?
この歌は小学校国語教科書にも掲載されています。
彼は天智天皇の子・光仁天皇の親です。結果的に彼は天智系を継承する橋渡しという形になった立場となります。彼の立場からして、天武系の子孫が行き詰まりはじめ、天智系が継承を奪回する見通しが立ったことを歌に詠みこんだのではないかと思えてきます。
「さ蕨」に天智系(つまり自分の子孫)、「萌えいずる」に天皇となって栄えるというような意味を託しているように思えてくるのですが、考えすぎでしょうか?
ベストアンサーに選ばれた回答
yellowpinkpigletさん
それは感じます。この歌万葉集巻八の巻頭の歌ですよね。おもて歌にふさわしい歌ですよね。「いわばしる」という言葉の中にも皇位継承への強い期待を感じます。
「いわれ(磐余)、カムヤマトイワレビコ、さざれ石のいわおとなりて、天の岩楠船、岩長姫、磐船神社」とか「いわ」には古来から特別の意味がありますよね。
神武天皇以前に、磐余一帯を支配していた饒速日命(にぎはやひのみこと)
は磐樟船(いわくすぶね)に乗って哮が峰(たけるがみね)に天降ったという神話があります。
大王は磐余を征した者じゃないといけなかった。何千年も続いた磐石のてっぺんに立つ人が天皇です。皇位を意味する巌を走り落ちる滝水。その磐石のてっぺんに早蕨が萌え出して、いよいよ春到来です。
さわらび,
さざれ石、さくら、さかき、早乙女、早苗、さのつくものは神宿るものです。
万葉集の編集者も志貴皇子のわくわくした思いに気づいてて皇子を祝福したい思いでいっぱいだったでしょう。それで巻8の巻頭にもってきたのでしょう。
私自身、志貴皇子の子孫が皇位についたことがすごくうれしいんです。志貴皇子って名歌をいくつも詠んだ高貴な王子さまです。この人の子孫に皇統を継いで欲しい。
天智天皇の皇子に生まれたためいつ殺されてもおかしくない困難な時期を生きた人です。
「むささびは木末(こぬれ)求むとあしひきの山の猟師(さつを)に逢ひにけるかも」(万3-267)
この歌を詠んでますがむささびみたいに殺されないように注意深く生きて、子孫についに天皇を出した。息子は65にして天皇となる。
神奈備の石瀬(いはせ)の杜(もり)のほととぎす毛無(けなし)の岡にいつか来鳴かむ(万8-1466)
神のいます石瀬の森のほととぎすよ、毛無の岡にいつ来て鳴いてくれるのだろうか。
↑この歌にも志貴皇子の皇位奪回への願望を感じます。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1131096856
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foreverfieldofviewさん
「万葉集」の歌で一番好きなものを教えてください。できれば、理由もお聞かせください。
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yellowpinkpigletさん
大伴家持の春の歌が好きです。かたくりの花の歌が特に気に入ってます。
もののふの八十(やそ)乙女らが汲みまがふ寺井のうへの堅香子(かたかご)の花
我が屋戸のいささ群(むら)竹ふく風の音のかそけきこの夕へかも
孟宗竹を吹く風の音に耳をかたむけてる家持の姿がインテリらしくて素敵。
志貴皇子の歌
神奈備の石瀬の杜(もり)のほととぎす毛無(けなし)の岡にいつか来鳴かむ
志貴皇子は天智天皇の第3皇子でした。天武、持統朝の間はひっそりと暮らしていましたが息子がついに天皇になりました。のちに光仁天皇となった白壁王です。
いつか自分の子孫が王位につく日を夢見てたでしょう。神様の住む神奈備の岩瀬の杜のほととぎすが私の住む毛無(けなし)の岡に飛んできてくれたらなという歌です。
いわばしる垂水(たるみ)の上の早蕨(さわらび)の萌え出づる春になりにけるかも
いよいよ自分の上にも春が到来しつつある予感があふれています。志貴皇子、よかったね!!
高市黒人の一連の歌はどれもこれも素晴らしいです。中でも1,3,2の数字遊びのこの歌は素敵。
妹(いも)も我(あれ)も一つなれかも三河なる二見(ふたみ)の道ゆ別れかねつる(万3-276)
あなたも私ももう一体だからなんでしょね。三河の二見の別れ道で、別れようとしてなかなか別れられないのは。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1039146230
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