大戦後期、その軍事工場の社員も本社から全員移動となり、この洞窟近くの寮に居を移した。

僕の母方の祖父は戦前から料亭やお寿司屋、カフェを営んでいた。
しかし、戦時中は食糧も配給制となりそれらのお店も暖簾を下ろした。
そして仕事として、その軍事工場の寮の食事係りとなった。
調理人として厨房に立った。
朝昼晩三食作り、社員や工員はそれを食べて洞窟内工場で働く。


それから約70年の時を経て、孫の僕がその洞窟の前に立っている。



偶然なだけなんだけど、色々な事を考える縁を少し頂いた気がした。

70年前のじいちゃんは恐らく今の僕と同じ位の年であったはず。

今よりも厳しい状況下、じいちゃんはどんな思いで生きていたんだろ?

今の僕見たら何て言うんだろ?

もっともっと苦労して必死に生きろ、と言うかな?

じいちゃんは僕が中学3年の時に亡くなった。それまで僕はじいちゃんに一度も怒られた事がないので、あまりキツい事は言わないか。



いや、一度もと書いたけど、本当は2回ほど怒られた。

僕が夜中に喘息の発作を起こし、極度の呼吸困難になったが、どうする事も出来ず、何とか翌朝近くの医者に往診してもらい、発作がとりあえず治まった時に、「馬鹿やろう、死んじまうかと思ったぞ」と真剣に一言。確か小学校低学年の時だった。

次は僕が中学の修学旅行に行く前夜。
お小遣いをくれた。
規定のお小遣いより多くなった。
じいちゃんは「母さんに言って、学生服の縫い合わせの所の糸を切ってお金をその中に入れてまた縫い合わせてもらいな」と言った。
僕はそんなの面倒くさいし恥ずかしいし、それ以前に何で?と思ってしまい笑いながら拒否した。
そしたら間髪を入れず「馬鹿やろう!何があるかわかんねぇんだぞ!世の中で一番惨めなのは自分だけがお金がないってことなんだぞ」と。

明治生まれのじいちゃんは9人兄弟の末っ子であった。
父親は定職に就いていなかったそうで「おてんとさんと米のメシは何処に行ってもついて回る」が口癖だったと言う。
じいちゃんは尋常小学校二年生終わりに丁稚奉公に出た。
9才か10才の時から働いていた。
それまでも、近くの川に行って小魚なんかを取り、自分のご飯のおかずとしていた。
色々な職業に付き必死に働いた。
横浜の洋食屋、東京のお寿司屋、割烹、それ以前は荷車屋、本州北海道連絡船の煙突掃除、その間に兵役に就き中国やロシアに。
ロシアでは部隊の斥候に出て、敵のロシア兵(じいちゃんは○○○と言ってた)と鉢合わせし、撃ち合いとなった。
それで脹ら脛を名誉の負傷、銃弾が貫通した。
命には別状なく、帰国後に退役し、地元の在郷軍人会ではこの銃創がものを言ってか一目置かれていたらしい。
亡くなるまでじいちゃんの脹ら脛にはこの傷跡があった。



なんか次々と色々な事を思い出してきた。
感謝しなきゃ。

じいちゃんありがとう。

取り留めのない話になっちゃった。
お仕事で、戦時中に防空壕兼軍事工場として使われていた洞窟の近くに来てます。

洞窟の入り口近くまでは行きましたが中には入ってません。


工場として使っていた位なのでかなり広いのかなと思われます。


で、本題の隔世。

この工場が稼働し始めた大戦後期、
今現在、建築塗装の自営業をしている。

狩猟型・縄文人的なスタイルだ。

現場があればあちこち移動する。

場所と時期はこちらからは決められない。
工事金額の大小も然り。

少し前には「3K」等と呼ばれ、やればやった分それなりのお金を得られた時代もあったらしい。
所謂バブルの頃だ。
らしい、と書いたのは僕が起業したのがバブル後なので、その時代の恩恵には預かっていない。

汚れる仕事なので一般の人は敬遠しがちだ。
その割に作業費は安い。技術料的なプラスαもほとんどない。



会社を経営していく上では、安定的な売上を確保したい。
そのために四苦八苦するのが経営者の諸々の仕事の中でも大きな割合となる。

今更だが、正確に分析すれば、僕個人の性格は建築業には向いていない。
と言うより僕のスキルは低く、親から受け継いだ会社でもないので、地盤・看板・資金等のバックボーンもない。




安定的な売上が見込めて、尚且つ自分が苦労を苦労とも感じないような仕事がないものかと求めながらずっとやってきた。
今の仕事の中で自分が一番充実感を得るのは、依頼主の会社の人やお施主様、職人や外注先の方、お取引がある会社の方などの人々の「笑顔」を見るときだ。
喜んでくれたのが、自分の充実感と幸せ感だ。

そういう仕事が大好きだ。




今、新規事業のお話を先方様と少しずつ進めさせて貰っている。

ウチの会社の経理全般をお任せしている計理士さんと、僕のカミさんにその話をしたところ、同じような言葉が返ってきた。

「それ、儲かるの?」



当たり前の疑問かとも思うが、つまらない疑問とも思える。
利益が上がるかどうかは努力や経営方針次第さ、と僕は高をくくっている。


何より僕がやりたいと強く思っている事だから。



この事業の話の発端は、ほんとの偶然。



「お仕事は何をされてるの?フッフッフッ」

「はあ、建築関係の、塗装業をしています」

「そりゃ、凄いね。人も沢山使ってるのかい?フッフッフッ」

「いやいや、少人数でやってまして、大きな工事はJVや外注さんにお願いしてやってます」

「随分儲かってるでしょ?フッフッフッ」

「食べていくのがやっとですよぉ。税金払うのもやっとですよ。僕には才覚ないし。こうして練習するのだって時間とお金がなかなかで」

「フッフッフッ、そんな事ないでしょ、フッフッフッ」

「いやぁ、あまり利益も上がらないですし。僕の夢ではこういう練習場を経営してみたいんです。みんなが気軽に楽しく集まって、それこそ子供からお年寄り夫婦やカップルまで集まって練習して、健康にもよい素晴らしいお仕事だとますよ。まぁ、夢ですが」

「フッフッフッ、あっそう!フッフッフッ、じゃあ自分でやったらいいじゃない!」

「はぉ、そうですね、やりたいですが、夢ですよ」

「ここ、おやりなさいな!フッフッフッ。大丈夫ですよ、お若いんだし出来ますよ、フッフッフッ」

「???ここをですか?、このゴルフ練習場を?」

「そうですよ、フッフッフッ、私ももう年だし誰も跡継ぎいないから、フッフッフッ、大丈夫!出来ますよ!」

「いやいや、はぁ?はい。え?、」

「よく考えてみてくださいね、フッフッフッ」

「はいはい、も、もしこの話が本当なら是非宜しくお願いします」

「大丈夫!出来ますよ!フッフッフッ」




ゴルフの練習が終わり、駐車場での立ち話。
お相手の老紳士のお名前もその時に初めて伺ったし、そのゴルフ練習場の社長(他に4つほど会社を経営されているそうです)であることも初めて知った。

僕はこの話が冗談や戯れ言の類であるかも、いやそうだろうと思いながらも、楽しいお話で夢見られたんだから、それはそれでいいと考えた。

ご挨拶方々自分の名刺を渡し帰宅した。

その晩は、務めてその話の事は考えないようにした。

ははっ、一瞬だけ予想もしなかった夢を見たんだなと。



次の日はいつもの月曜日と同じようにバタバタ忙しく動き回っていた。

午後、僕の携帯に未登録の電話番号から着信があった。
また忙しくなるかな?と思いながらその電話に出た。

「フッフッフッ、考えてくれた?家内にも相談したんだ。家内もそりゃあいいって。フッフッフッ、大丈夫!若いんだから出来るから!私があの練習場始めたのはアナタくらいの年だったですよフッフッフッ、考えて下さいね、フッフッフッ」

昨日の老紳士、いや社長さんからであった。

「はい、お願いします!」


打席数60、約230yard、駐車場完備。

そして僕の好きな、得意な分野のお仕事。



条件面を詰めるが、僕は先方様の言いなりで良いと思っている。


感謝します。