2ヶ月ほど前、仕事を辞めて無職になりました。

仕事を辞めた理由は、心が満たされなかったからです。

職場の人と仲良くなればなるほど、溢れるのは他人の悪口ばかり。

他人を嫌うことで必要最低限の会話に留めようとする社員同士を見ていて、本当に必要十分なほど会話が行えているのか、僕は疑問に思いました。恐らくですが、本当のサービスを提供する一員としての自覚があるならもっと十分に会話ってするべきでは無いのかと思います。また、業務中であるにもかかわらず他人の悪口が散見され非常に不快な気分になりました。

先輩に相談すると、「君はまだ若くていろいろなところ見てきた事がないかもしれないけど、どこもそんな感じだよ。」と言っておられました。また、当時付き合っていた彼女に相談しても同じ様な返事でした。

どうして他人を下げていなきゃ気が済まないのか、色々と仮説は立てられるものの納得のいく論拠は僕には見つかりませんでした。

取り敢えず、此処を辞めてもっと違う社会を見てみようという期待を込めて僕は辞職しました。

辞職する際、これまで「頼りにしている」とか「〜くんなら、大丈夫」とか励ましてくれていた上司が「他人に迷惑がかかる事がわからないの?」とか「人としての人格を疑います」とかって言い並べた挙句に「時間を置かせて頂戴、当然よね?」と確認してきたときは、様々な意味で失望しました。人格を否定して他人の自信を下げる事で、人から決断する能力を奪おうとするその狡猾なやり方に僕は見切りをつけて、直様会社を辞めました。

 

仕事を探して、会社訪問をしていた際に凄くいい会社があることもしりました。自分の無力さが故に、その会社には入れなかったのですがキチンとやってるところはやっている、とそう感じましたので私の様なモノが上から言うのはおこがましい話ではあると思いますが安心しました。

けれど、他の会社を探せど探せど自分が勤めたいと思える会社はなく一先ずフリーターの道を選ぶことにしました。

 

フリーターになるにあたり、まず親から”大丈夫なのか?”という視線を常に受け始める様になりました。確かに世間はフリーターに対する根幹に介在する差別意識というか、それで「将来大丈夫なのか?」という余計なお世話で見がちです。個人的には、自分の心配だけしてくれたらいいと思っております。人は自分にも他人に対しても、絶対を定めがちです。

「フリーター=落伍者」とか「正社員=普通」とか”皆”という記号的な虚構に対して信頼を寄せている理由がわかりません。

私は思います、どこにも絶対はないと。よくこういうと、絶対がないと絶対に言えるの?という風に言われますが。

絶対がないことを人間である僕には理解する事が難しいんです。ただ、自然を見ていればわかると思います。

不立文字ではありませんが、人は自分が思っている以上に無知な存在なんです。

自らの考えや、気分が一定しないのと同様に人自身もまた可能性の一部にすぎません。

 

僕は色々と考えを巡らせた結果、やはり自分の生き方を貫くのが一番であると考えました。

自分の可能性や他人の可能性、社会がより良くなるという可能性を信じ、全うする事が全てである様な気がしました。

また、僕は現代に生きる人々ーネットを子供の頃から触っていたモノとそれ以前の人とでは情報格差があまりにありすぎると考えます。恐らく、以前つまりはネットが存在しない頃より現代は他人の意見を目にしやすくなっていると考えます。いや、広く言えば他人の表現全般ですね。蓄えられる情報の量に大きな格差があると考えます。

それを踏まえた上で、現代人は(一部例を除く)会社の体勢に耐えられるのかと危惧しているところがあります。

”正社員であることを絶ってしまえば世間的に破滅してしまう”という学生の頃に培われた魔法が途切れやすい状態ではあると思うんですよね。社会もまた可能性の集合体であり、皆が一斉に明日から会社へ行かなくなるという選択肢もあるはずなのに我々は”普段”を演じます。これは国家を維持するためには、必要な事ではあると思いますが国家をなすのは人です。

普段を演じられなくなりつつある人に、普段を演じさせ続けると恐らくですがパンクするでしょう。

もし、これを読んでいる貴方が普段を演じる事が難しくなってきていると考えていたならきっとこの文章を読んで心は少しでも軽くなる事でしょう。それほどキチンと人を可能性として認識することって大事なんです。

弾かれる選択肢を絞る事で、より良い未来へ向かうはずだと唱えるのって傲慢なんです。親は子を心配して、”危ないからやめたほうがいい”とよく言います。確かに子供がこれから火の中へ飛び込もうとしているのなら、とめてしかるべきです。

ですが、これから子供が飛び込む先を本当によく知っていますか、というところが重要です。

親も子供も同じく人です。子供は親のものではありません。

また、これは国家と人に置き換えても言える話です。

 

悲しくも、僕らの行く先々には様々な絶対を定める規則が存在します。

(また、僕が今こうして伝えているのは単なる社会批判ではありません。祈りに近いかもしれないです。)

法の絶対性は必要不可欠ではあると思いますが、会社に勤めることで交わす絶対の内容には賛同できないところもあります。

そんなある個人の願いによって具現化された絶対は、ストレスのタネにもなるでしょう。

だがしかし、実際に今生きている人々が抱えている多くのストレスは、いろんな人の絶対が交錯しているからでしょう。

自分をぞんざいに扱われたり、欅坂から引用すると白い羊を拒んだり、神様がいすぎなんですよ。

かつて人間の祖先となるアダムとイブを追放した神様の様な人たちが。

 

無論、神様とは崇めて言っているわけではなく構造的な意味で言っています。

他人に自分の絶対を押し付け、人が持っていて当然の可能性を否定するのは、とても愚かなことなんです。

 

僕は表現者になることを決めました。きっと諦めなければ、声は届きます。

 

より良い世界が訪れます様に。以上、無職(フリーター)からでした。

 

読んでくださった方、本当にありがとうございます。