ヒッピー部パフォーマンスvol.1 [平原] @ SNAC 開催決定しました!
お世話になっております。
来たる10月2日(土)18:30開場/19:00開演、10月3日(日)16:30開場/17:00開演!
清澄白河駅徒歩5分!
無人島プロダクション/吾妻橋ダンスクロッシング共同プロデュースギャラリー
「SNAC」(http://snac.in)
にて、インスタレーション/パフォーマンスを行います。新時代の表現を是非ともご堪能ください!
3日(日)の回のアフタートークには、批評家の佐々木敦さんがいらっしゃいます!
お誘い合わせの上、どうぞご来場ください!!!!
以下フライヤー画像と詳細です。
ヒッピー部とは、既存の方法論ではない作り方で、演劇行為を実験、試行する取り組みです。
別に、部活じゃないです。
俳優/演出家/脚本家/音楽家/写真家などが表現し合うカンパニーの名前です。
今回は、カメラによって記録される身体の行為そのものを、そのまま演劇にすることで、
なぜ舞台に上がらなければならず、なぜ演劇を行うのか?という、
そもそもの前提の部分を考え、作り上げました。
予約などは、代表の三野新のtwitterだったり、
godardsymposium(at)gmail.com
まで、希望日時、お名前、希望枚数をメールして頂ければ、結構です。
当日に清算となります。その他は、フライヤーをご参照ください。
また、詳しい会場の情報は、「SNAC」のホームページをご参照くださいませ。
http://snac.in
それでは、皆さまのお越しをお待ちしております。
三野 新
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今回は、カメラによって記録される身体の行為そのものを、そのまま演劇にすることで、
なぜ舞台に上がらなければならず、なぜ演劇を行うのか?という、
そもそもの前提の部分を考え、作り上げました。
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まで、希望日時、お名前、希望枚数をメールして頂ければ、結構です。
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三野 新
第2回ゴダールシンポジウム後、自分なりに考えたこと。
演劇における視聴覚分断試論
演劇はかつて、『聞く』→『見る』へと主要に使われる五感は変遷していった。このことから派生して、聞くことと見ることを同時に課せられた観客が、現在ではどのような感覚で受容し始めているかを考察したいと思う。
まず先に結論を言ってしまうならば、視覚×聴覚をゴダールの表現を借りれば、いかにソニマージュさせるかを越えて、現在では聴覚×聴覚のソニマージュを現在は試みられているのではないか、と考えている。ソニマージュについて、もしくは表題にある視聴覚の分断性について、さらに詳しく見てみよう。
第一章/視覚×聴覚の変遷~エイゼンシュテインの論を中心に~。
冒頭にあるように、パフォーミングアーツの大まかな歴史として、古代から中世にかけて、演劇は聞くことによる演劇であったが、近代に入り人物の心の内面などをいかに聞かせるのではなく、見せることができるか、という演出上の問題を解決しようと、さまざまな視覚的な装置が作られ、人々はパフォーミングアーツを聞くのみでなく、見ることを同時に必要とされるようになっていった。これらの説明は、ゴダールシンポジウムとあまり関係ないので省く。
さて、ここで、話を少し時間を進ませて、1905年の『ロシアにおける革命』という映画作品を見てみよう。この作品は、当時ポチョムキン号の乗組員の反乱を、ニュース映像として世界中に配信するため、その再現のためわずか7カットで、舞台上で演劇の一幕のように俳優が演じられものを撮影しただけの映画である。もちろん当時はサイレントであり、観客は視覚だけを使ってこの映画をみることができた。ちなみに、映画は原初、演劇をただ撮影して上映するということだけで、全世界的にかなり大もうけした時代であった。
『ロシアにおける革命』のような再現ニュース映画は、当時としては一般的であり。テレビそのものがないため、ある大事件を再現して映画にしてニュース映画として世界中に配給、ということは大変よくあることであった。またこのように、演劇の形を持ってしか当時は映画としてのナラティブを確立できなかったことにも注目してほしい。その20年後になって、エイゼンシュテインが独自のモンタージュ理論を用いてポチョムキン号におけるあらたな映画文法を用いた新たな方法で物語を映画『戦艦ポチョムキン』によって作り出すが、それまでは映画は演劇を映すことで物語を生み出した。
ここで、話をロシアの映画作家セルゲイ・エイゼンシュテインが活用したモンタージュ理論について考えてみよう。ご存知のように、エイゼンシュテインは独自のモンタージュ理論により映画文法を確立した嚆矢として知られているが、モンタージュ理論は、リュミエール兄弟が初めて生み出した(=発見した)サイレント映画のもつ極めて多大なノイズ性をいかに排除して、作品として意味や物語を生成させるか、を実践する理論として知られている。ノイズ性とは具体的に何か。人は初めて映像編集をした時に、映像と映像を組み合わせることが、どれほど違和感があるかを感じるはずだ。その違和感は、映像の持つ我々が意図して映像を使おうとする時にもつ、排除すべき映像の「その他」の情報のことである。もっと言うと、例えば、イメージラインという用語が存在する。人の会話を撮る際、顔を左に向けるとすると、次のカットでは顔を右に向けなければ、会話しているように見えない、というモンタージュ技法である。この技法によって、モンタージュする際、より作者の意図するような映像表現として観客を誘導するのである。
私はここでそこで排除すべきノイズ性は、すなわち「無意識」と同じなのである、と言ってみたい。無意識を意識化するという作業と、ノイズにまみれた映像を、モンタージュによって排除する、という作業はきわめて類似性が高いことを発見したからなのだが、これは、どういうことか。このことを説明するには、まずエイゼンシュテインの映画評論『映画における第四次元』(『エイゼンシュテイン解読』、フィルムアート社より抜粋)を少し長いが引用したい。この文章は、エイゼンシュテインがアメリカで初のトーキー映画『ジャズシンガー』が誕生し、その後、数々のトーキー化された映画がロシアに流入し受容されることに対する痛烈な批判を込めて書いた文章である。
(引用文)
・・・一言で言えば、中心的な刺激的要素には(たとえば先の例のような性的刺激でもかまわないのだが)、つねに二次的な刺激的要素の数々の集合が伴うのである。
これは音響効果(そしてその特別のケースとしての器楽)において起こることと、完全に一致している。
そういった場合、根本的で支配的な音調の響きとともに、オーヴァートーンとかアンダートーンとか呼ばれるような一連の副次的な音響が生ずる。それらが、互い同士と衝突したり、根本的なトーンと衝突したりすることによって、根本的なトーンは数多くの二次的な音響につつまれるわけだ。
音響効果においてはこういった副次的な音響がかりに単なる“邪魔”な要素にすぎないにしても、音楽においてはこれらの音響は作曲構成上の観点から計算されていれば、革新的な作曲家たちの最も注目すべき手段となる(ドビュッシー、スクリャービン)。
光学の場合も全く同様である。(中略)
撮影された素材自体を、そこに派生する響きの利用と結び合わせて考えれば、音楽の場合と同じように、ショットの視覚的オーヴァートーンの複合体が得られる。
『全線』のモンタージュもまた、この手法によって組み立てられている。このモンタージュは特定のドミナントに基づいて組み立てられているわけではなく、あらゆる刺激的要素による刺激の総計をドミナントとしているのだ。
(強調は筆者によるもの)
音楽的なオーヴァートーンの概念を、光学的にも応用しようとしたエイゼンシュテインの思想が読み取れるわけだが、これにはすこし説明が必要であろう。
オーヴァートーンとは、近代和声理論におけるまさにノイズのことであり、例えばブルースミュージックにおける揺らぎの音であったり、現代音楽、とくにジョン・ケージにおいて生み出されたピアノの弦のうえに、異物を置くことでピアノを弾く度にピアノの音以外の音が生み出されると言う、ある種「予期され得ない」音のことである、と言えば分かりやすいだろうか。そのような、ある種無意識的に生み出されるエイゼンシュテインの言葉を借りるならば「第四次的」なドミナントを用いた理論によって、まさにモンタージュ理論は支えられているのであった。
話が当初の演劇の考察から大分逸れてしまったが、元に戻すために先に述べたエイゼンシュテインの評論と演劇との関係を述べる。演劇においては、聞くことのみから見聴きすることに移ったが、映画は見ることのみから見聴くことへと移った。そのことにより、エイゼンシュテインは無意識の領域(=オーヴァートーン)から、見ることと聞くことのモンタージュの必要性を説いた。これは、演劇においても全く当てはまるのではないか。
そのことの説明のために、次の文章、アイルランド出身劇作家サミュエル・ベケット『言葉と音楽』に関して、分析を行うこととする。
第二章/視覚×聴覚の分断へ~サミュエル・ベケット『言葉と音楽』を中心に~
ベケットは、映画作品「Film」においてサイレント映画への可能性を常に信じていたことは、ジェイムズノウルソンの『ベケット伝』226ページの引用をすれば明らかだ。
(引用文)
二次元のサイレント映画は独自の場所を確保するかもしれない。もしそうなれば、ようやく幼年期を脱した途端に水をかけられてしまったサイレントはトーキーと別々に並び立ち、二つの間に戦いはないだろうし、サイレントが完敗することもないだろう。
カラーのトーキー映画の発展に対して、なぜこれほどまでにベケットは反感を持ったのだろうか?それは、映画がトーキー化に移行するためのある特殊な事情があったからだ。強引にまず結論を言ってしまえば、視覚と聴覚は同時には認識し得ない、ずれを抱え込むものだと言う前提をないままに、アメリカによる初のトーキー映画『ジャズシンガー』では歌とスターを映像に強シンクロさせることで、無理矢理トーキー化した経緯がある、ということだ。これは、本来ならば、第一章で述べた、エイゼンシュテインがついには理論を完成させながらも作品として実現できなかった、「視覚的オーヴァートーンと聴覚的オーヴァートーンの対位的衝突」とはほど遠い所にあるのだ。アメリカのトーキー化に関して、菊地成孔・大谷能生共著『アフロ・ディズニー』(文藝春秋社)ではこのように述べている。
(引用文)
彼らは理論構築の類いは後回しにして、とにかく場当たり的に、音と映像が同期していることの快楽を前面に押し出すかたちでトーキー化を進めていきました。この段階におけるハリウッド・トーキー映画最大のアイテムが、運動と音楽が完全に同期する=強シンクロ性で出来ている一連のミュージカル映画および、ディズニー・プロダクションが先導するアニメーションだったことは象徴的です。
『ジャズシンガー』でもっとも有名なシーンは、勿論ラストシーンにおいてリトアニア出身で当時の人気歌手アル・ジョンソンが歌いながら舞台に上がるシーンであろう。この舞台上でのシーンまで本作品は全くのサイレント映画として今まで通り映写されていたのだが、最後の最後で肉声で歌って踊るアル・ジョンソンがでてきたことは、観客にたいしてエイゼンシュテインが先の論文で述べた所の無意識的におこる視聴覚のモンタージュによる衝突によって生まれる二次的な音響(=ズレ)を考えさせない程の驚きで迎えられたこととして記録されている。
この時代のサイレント映画は、視覚として入る言葉(当時は映写されていた)と、その場でならされる音楽(レコード、もしくは生演奏で)とが、別々の場所から知覚させられるという一般的な経験に対して、それは異常な受容の仕方であるという感覚を持っていたベケットの姿が先のベケットの発言から容易に想像できる。ここで、ベケットの「言葉と音楽」(『ベケット戯曲全集2』安堂信也/高橋康也共訳、白水社)を見てみよう。本作品は、言葉と音楽が擬人化されており、まるでスラップスティック映画のような言葉と音楽のやり取りが繰り返される。これはある意味極めてサイレント映画的だと言えるであろうし、作品中の「言葉」が「いつまでこの暗闇の中に閉じ込められているんだ?」というセリフには、映画館の暗闇の中で図らずも同居している、「言葉」と「音楽」ののっぴきならない「ズレ」への耐えられなさ、を表象しているとも取れる。
登場人物のもう一人である、クロウクの存在は「サイレント映画」そのものにも取れるし、先程述べた映画体験における「ズレ」の受容に悩む「観客」にも取れるのだが、今回そのどちらかに決定しようとすることは、あまり重要ではないので省く。
問題なのは、言葉と音楽が結局なんの接点も持てず、最後の「言葉」が吐いてしまう「ため息」として、絶望にも似た感覚を抱くこと。ドゥルーズの言葉を借りるならば、「消尽してしまった」わけだ。その意味では、『言葉と音楽』は、悲劇的な喜劇と言えるはずなのであろう。つまり、最終的に言葉(=視覚)と音楽(=聴覚)は同期不可能なことが分かっている(=悲劇)のに、そのままそれに気付かず(もしくは気付かないように振る舞う)ことで、喜劇として笑って読めてしまう作品と言えるのではないか、ということだ。
これはベケットの持つ極めて鮮烈なトーキー映画批判であると言える。言い換えるならば、『言葉と音楽』においては、サイレイト映画において言葉と音楽の対等な関係の構築に絶望したというベケットの表明なのだ。そもそもサイレント映画でさえもこのような視覚と聴覚のズレを感じてしまう人間が、アメリカ映画に代表される強シンクロされた極めて輪郭線をはっきり描くことで無いものとしてしまったトーキー映画の、視覚と聴覚の本質的な不一致がひたすら受容され続ける状況をベケットはまずもって自作できっぱり決別の表明を行った、ということだ。
このことから、ベケットは、さらに『言葉と音楽』を書いた2年後の作品『カスカンド』において、その視覚×聴覚のズレからラジオ劇という媒体を使って、聴覚×聴覚のズレに対して意識的に働きかけようとする。これはなぜか。演劇においては、もし音楽を使わないとすれば、視覚と聴覚のズレはその場においては感じにくい。というか、そもそも感じていない。「感じにくい」などという表現を使ったのは、ベケットが著作を書いた当時はもちろん映画全盛、しかもトーキー映画全盛であり、演劇で表現することが、なぜ映画ではないのか?という無理な対位法的概念として配置されていたことへの配慮である。
そのことから、ベケットはまず視覚分野を抑えて、聴覚だけでのソニマージュは可能かを試みようとしたのではないか?そのためには、まずソニマージュについての論考を行う必要があるのだろう。
フランスの映画監督ジャン=リュック・ゴダールは、90年代後半より『映画史』という映画を作った。本作品は、ジョルジュ・サドゥールのような映画史家の立場から、系譜学的かつクロノロジカル的に映画史を発表する形では根本的に異なって、ゴダールが述べるように、「映画は映画でしか歴史を紡ぎ得ない」という思想を自ら実行するために、映画史とはなにか?を疑うことから始めた極めてラディカルな創作と言える。ただ、ここで重要なのは、別に映画史そのものを問いかけようとする本質ではなく(勿論ゴダール作品を考えるならば最も重要なことだが今回の論では省く)、ゴダールが『映画史』を生み出すために使われた方法論の部分である。ここで、まず佐々木敦著『ゴダールレッスン~あるいは最後から2番目の映画~』(フィルムアート社)より引用する。
(引用文)
『映画史』ではそれぞれの「音」の間に、いかなるレヴェルでも序列がもうけられていない。ある曲がある曲よりも重要な扱いを受けるというようなことは、まずほとんどない。あらゆるサウンドはまったく同等の権利のもとに、作品内部に縦横に散布されているのだ。要するに、「ゴダールの80年代」のサウンドトラックにおいて、徐々に進行していった事態とは、その「音」の配置が「中心」を欠落させてゆくプロセスである。それは言ってみれば「主旋律」を欠いたシンフォニーなのだ。
これは勿論サウンドだけでなく、光学的な側面からも言えることだ。ゴダールは第一章で述べた映像のノイズ性の取り扱い方において、極めて真摯な態度を取り続ける。エイゼンシュテインが排除しようとした映像のノイズを、それこそが重要なこととしてそれを映画史の中に取り込もうとする。この行為のことが、まさにゴダールが確立した(Son + Image=Sonimage)の概念であると言える。それは、「音と映像が全て等価なもの」として捉えようとする視覚×聴覚を分裂してリミックスする、今で言うところのDJのように編集を引き受けることだ。
『映画史』はこのようなリミックスの感覚によって、主観的に、かつ動物的な感覚でもって視覚と聴覚をモンタージュさせ、独自の映画史を編んでいく。これはまさにエイゼンシュテインのもつオーヴァートーンによって駆動するモンタージュ論の集大成といえるだろう。なにせ、『映画史』の素材自体全てが「ノイズ」なのだから。
第3章/演劇の聴覚×聴覚ソニマージュの可能性。
さて、ここで話をベケットに戻したい。ベケットはこのような視覚×聴覚のソニマージュを、戯曲『カスカンド』において聴覚×聴覚で可能かどうか試そうとしたのではないか。この考えは、現在DJの技法、もしくはヒップホップによって継承されているが、もちろん60年代当時は、存在していない。
『カスカンド』は、音楽と声をカッティングし、それらを一小節くらいの短い文節に区切って同期させている。これは演出上の問題なので、戯曲だけを見る限りでは、はっきり言って、それがどれほど同期しているのか、それともまったく同期されていないのか、などの詳しい音楽と声のマリアージュの様子は分からない。だが、ここで問題なのは、登場人物の一人「聞く人」は見ることをやめてしまったことにある。
(引用文)
聞く人 ひとは言う、それはやつの人生じゃない、それで生きてはいない。
ひとにはわたしが見えない、わたしの人生が見えない、なんで生きて
いるか見えない、それなのに言う、それはやつの人生じゃない、それ
で生きてはいない。
このセリフは、まさに生きるべくして、トーキーの登場によってうまく生きて行けなかったサイレイト映画のセリフとして受容できるはずだ。それはなぜだろう。「聞く人」は、最後に「まるで腕でも組んでいるかのようだ」と、声(=聴覚)と音楽(=聴覚)の素晴らしいマリアージュに感動している。これは、前作『言葉と音楽』における「絶望したため息」とは全くの反対の表現であるからだ。
本質的に聴覚だけのメディアにおいて視覚との分断は存在していないので、このようにまずベケットは、映画にたいする前提としての、聴覚×聴覚へのソニマージュを試み、それをいかに素晴らしく成功するものであるかを高らかに宣言しているのである。つまり、「全ては頭の中のこと」と聞く人が言うように、声を聴覚のみにより頭の中で「一つの映像」へと変換することで「他のと同じの」イメージとして音楽とソニマージュが可能である、というように創作したのだ。
このことに関して、例を挙げるならば2010年7月にアサヒアートスクウェアで催された「吾妻橋ダンスクロッシング」において、飴屋法水作/演出『つるとんたん』を挙げたい。
この作品は、飴屋本人が音楽をその場でDJとしてプレイして、3人の登場人物が別々にマイクをもって話すことでやり取りされる。そのため、私たちは全くそれぞれ個別の声を聞く術を持たない。一人の声に集中しようとすると、もう一人の絶叫に遮られて、音楽だけを聴こうとすると、唐突に止まってしまう。このように、聴覚×聴覚×聴覚×聴覚に分断され、それぞれの声を頭の中にイメージして、自由に他の聴覚を選びソニマージュさせると言う、「選択的な聴覚ソニマージュ」を可能としている。これは、映画ではあり得ないことだ。なぜなら、映画では見ることがそもそも視覚と聴覚が分断しているという前提があるわけだが、演劇では実際に行われている目の前で行われることなので、そのような断裂が行われない。これは第二章で述べた、このような分断を感じにくいとした、演劇固有の問題が映画の側から逆意識化されたことから顕著になった考えだ。
このように、現在においては、演劇は視覚×聴覚のソニマージュに苦心する映像メディアを尻目に、聴覚×聴覚のソニマージュへとモンタージュ理論を援用し、我々に新たな聴覚の分裂を意識化させる試みを連綿と行っているのである。
最終章/まとめ
我々は、映像、映画、演劇、音楽の考えを横断して、さまざまな理論、視覚(見ること)と聴覚(聞くこと)の在り方を考えてきた。当初聞くことだけであった演劇が、内面を表現するための演出的必要性にかられ、見ることを意識するようになった。その後同時進行的に映画メディアが開発され、映像を見ることが、いかにノイズが横溢されたものまで見ていることになっているかを、エイゼンシュテインのモンタージュ理論によって痛感したことだ。さらに映画のトーキー化によって、そのようなモンタージュ理論を駆動させるオーヴァートーンがハリウッドによって無し崩しにされたことを見た。ベケットは、そのような映画のトーキー化を許さず、独自に聴覚×聴覚のソニマージュを自作によって試みた。それが、現在の先進的な演劇ではさらに応用的な方法で、聞くことに対する分断を意識化させていることへと連綿と繋がってきたのであった。
(文責/三野新)
演劇はかつて、『聞く』→『見る』へと主要に使われる五感は変遷していった。このことから派生して、聞くことと見ることを同時に課せられた観客が、現在ではどのような感覚で受容し始めているかを考察したいと思う。
まず先に結論を言ってしまうならば、視覚×聴覚をゴダールの表現を借りれば、いかにソニマージュさせるかを越えて、現在では聴覚×聴覚のソニマージュを現在は試みられているのではないか、と考えている。ソニマージュについて、もしくは表題にある視聴覚の分断性について、さらに詳しく見てみよう。
第一章/視覚×聴覚の変遷~エイゼンシュテインの論を中心に~。
冒頭にあるように、パフォーミングアーツの大まかな歴史として、古代から中世にかけて、演劇は聞くことによる演劇であったが、近代に入り人物の心の内面などをいかに聞かせるのではなく、見せることができるか、という演出上の問題を解決しようと、さまざまな視覚的な装置が作られ、人々はパフォーミングアーツを聞くのみでなく、見ることを同時に必要とされるようになっていった。これらの説明は、ゴダールシンポジウムとあまり関係ないので省く。
さて、ここで、話を少し時間を進ませて、1905年の『ロシアにおける革命』という映画作品を見てみよう。この作品は、当時ポチョムキン号の乗組員の反乱を、ニュース映像として世界中に配信するため、その再現のためわずか7カットで、舞台上で演劇の一幕のように俳優が演じられものを撮影しただけの映画である。もちろん当時はサイレントであり、観客は視覚だけを使ってこの映画をみることができた。ちなみに、映画は原初、演劇をただ撮影して上映するということだけで、全世界的にかなり大もうけした時代であった。
『ロシアにおける革命』のような再現ニュース映画は、当時としては一般的であり。テレビそのものがないため、ある大事件を再現して映画にしてニュース映画として世界中に配給、ということは大変よくあることであった。またこのように、演劇の形を持ってしか当時は映画としてのナラティブを確立できなかったことにも注目してほしい。その20年後になって、エイゼンシュテインが独自のモンタージュ理論を用いてポチョムキン号におけるあらたな映画文法を用いた新たな方法で物語を映画『戦艦ポチョムキン』によって作り出すが、それまでは映画は演劇を映すことで物語を生み出した。
ここで、話をロシアの映画作家セルゲイ・エイゼンシュテインが活用したモンタージュ理論について考えてみよう。ご存知のように、エイゼンシュテインは独自のモンタージュ理論により映画文法を確立した嚆矢として知られているが、モンタージュ理論は、リュミエール兄弟が初めて生み出した(=発見した)サイレント映画のもつ極めて多大なノイズ性をいかに排除して、作品として意味や物語を生成させるか、を実践する理論として知られている。ノイズ性とは具体的に何か。人は初めて映像編集をした時に、映像と映像を組み合わせることが、どれほど違和感があるかを感じるはずだ。その違和感は、映像の持つ我々が意図して映像を使おうとする時にもつ、排除すべき映像の「その他」の情報のことである。もっと言うと、例えば、イメージラインという用語が存在する。人の会話を撮る際、顔を左に向けるとすると、次のカットでは顔を右に向けなければ、会話しているように見えない、というモンタージュ技法である。この技法によって、モンタージュする際、より作者の意図するような映像表現として観客を誘導するのである。
私はここでそこで排除すべきノイズ性は、すなわち「無意識」と同じなのである、と言ってみたい。無意識を意識化するという作業と、ノイズにまみれた映像を、モンタージュによって排除する、という作業はきわめて類似性が高いことを発見したからなのだが、これは、どういうことか。このことを説明するには、まずエイゼンシュテインの映画評論『映画における第四次元』(『エイゼンシュテイン解読』、フィルムアート社より抜粋)を少し長いが引用したい。この文章は、エイゼンシュテインがアメリカで初のトーキー映画『ジャズシンガー』が誕生し、その後、数々のトーキー化された映画がロシアに流入し受容されることに対する痛烈な批判を込めて書いた文章である。
(引用文)
・・・一言で言えば、中心的な刺激的要素には(たとえば先の例のような性的刺激でもかまわないのだが)、つねに二次的な刺激的要素の数々の集合が伴うのである。
これは音響効果(そしてその特別のケースとしての器楽)において起こることと、完全に一致している。
そういった場合、根本的で支配的な音調の響きとともに、オーヴァートーンとかアンダートーンとか呼ばれるような一連の副次的な音響が生ずる。それらが、互い同士と衝突したり、根本的なトーンと衝突したりすることによって、根本的なトーンは数多くの二次的な音響につつまれるわけだ。
音響効果においてはこういった副次的な音響がかりに単なる“邪魔”な要素にすぎないにしても、音楽においてはこれらの音響は作曲構成上の観点から計算されていれば、革新的な作曲家たちの最も注目すべき手段となる(ドビュッシー、スクリャービン)。
光学の場合も全く同様である。(中略)
撮影された素材自体を、そこに派生する響きの利用と結び合わせて考えれば、音楽の場合と同じように、ショットの視覚的オーヴァートーンの複合体が得られる。
『全線』のモンタージュもまた、この手法によって組み立てられている。このモンタージュは特定のドミナントに基づいて組み立てられているわけではなく、あらゆる刺激的要素による刺激の総計をドミナントとしているのだ。
(強調は筆者によるもの)
音楽的なオーヴァートーンの概念を、光学的にも応用しようとしたエイゼンシュテインの思想が読み取れるわけだが、これにはすこし説明が必要であろう。
オーヴァートーンとは、近代和声理論におけるまさにノイズのことであり、例えばブルースミュージックにおける揺らぎの音であったり、現代音楽、とくにジョン・ケージにおいて生み出されたピアノの弦のうえに、異物を置くことでピアノを弾く度にピアノの音以外の音が生み出されると言う、ある種「予期され得ない」音のことである、と言えば分かりやすいだろうか。そのような、ある種無意識的に生み出されるエイゼンシュテインの言葉を借りるならば「第四次的」なドミナントを用いた理論によって、まさにモンタージュ理論は支えられているのであった。
話が当初の演劇の考察から大分逸れてしまったが、元に戻すために先に述べたエイゼンシュテインの評論と演劇との関係を述べる。演劇においては、聞くことのみから見聴きすることに移ったが、映画は見ることのみから見聴くことへと移った。そのことにより、エイゼンシュテインは無意識の領域(=オーヴァートーン)から、見ることと聞くことのモンタージュの必要性を説いた。これは、演劇においても全く当てはまるのではないか。
そのことの説明のために、次の文章、アイルランド出身劇作家サミュエル・ベケット『言葉と音楽』に関して、分析を行うこととする。
第二章/視覚×聴覚の分断へ~サミュエル・ベケット『言葉と音楽』を中心に~
ベケットは、映画作品「Film」においてサイレント映画への可能性を常に信じていたことは、ジェイムズノウルソンの『ベケット伝』226ページの引用をすれば明らかだ。
(引用文)
二次元のサイレント映画は独自の場所を確保するかもしれない。もしそうなれば、ようやく幼年期を脱した途端に水をかけられてしまったサイレントはトーキーと別々に並び立ち、二つの間に戦いはないだろうし、サイレントが完敗することもないだろう。
カラーのトーキー映画の発展に対して、なぜこれほどまでにベケットは反感を持ったのだろうか?それは、映画がトーキー化に移行するためのある特殊な事情があったからだ。強引にまず結論を言ってしまえば、視覚と聴覚は同時には認識し得ない、ずれを抱え込むものだと言う前提をないままに、アメリカによる初のトーキー映画『ジャズシンガー』では歌とスターを映像に強シンクロさせることで、無理矢理トーキー化した経緯がある、ということだ。これは、本来ならば、第一章で述べた、エイゼンシュテインがついには理論を完成させながらも作品として実現できなかった、「視覚的オーヴァートーンと聴覚的オーヴァートーンの対位的衝突」とはほど遠い所にあるのだ。アメリカのトーキー化に関して、菊地成孔・大谷能生共著『アフロ・ディズニー』(文藝春秋社)ではこのように述べている。
(引用文)
彼らは理論構築の類いは後回しにして、とにかく場当たり的に、音と映像が同期していることの快楽を前面に押し出すかたちでトーキー化を進めていきました。この段階におけるハリウッド・トーキー映画最大のアイテムが、運動と音楽が完全に同期する=強シンクロ性で出来ている一連のミュージカル映画および、ディズニー・プロダクションが先導するアニメーションだったことは象徴的です。
『ジャズシンガー』でもっとも有名なシーンは、勿論ラストシーンにおいてリトアニア出身で当時の人気歌手アル・ジョンソンが歌いながら舞台に上がるシーンであろう。この舞台上でのシーンまで本作品は全くのサイレント映画として今まで通り映写されていたのだが、最後の最後で肉声で歌って踊るアル・ジョンソンがでてきたことは、観客にたいしてエイゼンシュテインが先の論文で述べた所の無意識的におこる視聴覚のモンタージュによる衝突によって生まれる二次的な音響(=ズレ)を考えさせない程の驚きで迎えられたこととして記録されている。
この時代のサイレント映画は、視覚として入る言葉(当時は映写されていた)と、その場でならされる音楽(レコード、もしくは生演奏で)とが、別々の場所から知覚させられるという一般的な経験に対して、それは異常な受容の仕方であるという感覚を持っていたベケットの姿が先のベケットの発言から容易に想像できる。ここで、ベケットの「言葉と音楽」(『ベケット戯曲全集2』安堂信也/高橋康也共訳、白水社)を見てみよう。本作品は、言葉と音楽が擬人化されており、まるでスラップスティック映画のような言葉と音楽のやり取りが繰り返される。これはある意味極めてサイレント映画的だと言えるであろうし、作品中の「言葉」が「いつまでこの暗闇の中に閉じ込められているんだ?」というセリフには、映画館の暗闇の中で図らずも同居している、「言葉」と「音楽」ののっぴきならない「ズレ」への耐えられなさ、を表象しているとも取れる。
登場人物のもう一人である、クロウクの存在は「サイレント映画」そのものにも取れるし、先程述べた映画体験における「ズレ」の受容に悩む「観客」にも取れるのだが、今回そのどちらかに決定しようとすることは、あまり重要ではないので省く。
問題なのは、言葉と音楽が結局なんの接点も持てず、最後の「言葉」が吐いてしまう「ため息」として、絶望にも似た感覚を抱くこと。ドゥルーズの言葉を借りるならば、「消尽してしまった」わけだ。その意味では、『言葉と音楽』は、悲劇的な喜劇と言えるはずなのであろう。つまり、最終的に言葉(=視覚)と音楽(=聴覚)は同期不可能なことが分かっている(=悲劇)のに、そのままそれに気付かず(もしくは気付かないように振る舞う)ことで、喜劇として笑って読めてしまう作品と言えるのではないか、ということだ。
これはベケットの持つ極めて鮮烈なトーキー映画批判であると言える。言い換えるならば、『言葉と音楽』においては、サイレイト映画において言葉と音楽の対等な関係の構築に絶望したというベケットの表明なのだ。そもそもサイレント映画でさえもこのような視覚と聴覚のズレを感じてしまう人間が、アメリカ映画に代表される強シンクロされた極めて輪郭線をはっきり描くことで無いものとしてしまったトーキー映画の、視覚と聴覚の本質的な不一致がひたすら受容され続ける状況をベケットはまずもって自作できっぱり決別の表明を行った、ということだ。
このことから、ベケットは、さらに『言葉と音楽』を書いた2年後の作品『カスカンド』において、その視覚×聴覚のズレからラジオ劇という媒体を使って、聴覚×聴覚のズレに対して意識的に働きかけようとする。これはなぜか。演劇においては、もし音楽を使わないとすれば、視覚と聴覚のズレはその場においては感じにくい。というか、そもそも感じていない。「感じにくい」などという表現を使ったのは、ベケットが著作を書いた当時はもちろん映画全盛、しかもトーキー映画全盛であり、演劇で表現することが、なぜ映画ではないのか?という無理な対位法的概念として配置されていたことへの配慮である。
そのことから、ベケットはまず視覚分野を抑えて、聴覚だけでのソニマージュは可能かを試みようとしたのではないか?そのためには、まずソニマージュについての論考を行う必要があるのだろう。
フランスの映画監督ジャン=リュック・ゴダールは、90年代後半より『映画史』という映画を作った。本作品は、ジョルジュ・サドゥールのような映画史家の立場から、系譜学的かつクロノロジカル的に映画史を発表する形では根本的に異なって、ゴダールが述べるように、「映画は映画でしか歴史を紡ぎ得ない」という思想を自ら実行するために、映画史とはなにか?を疑うことから始めた極めてラディカルな創作と言える。ただ、ここで重要なのは、別に映画史そのものを問いかけようとする本質ではなく(勿論ゴダール作品を考えるならば最も重要なことだが今回の論では省く)、ゴダールが『映画史』を生み出すために使われた方法論の部分である。ここで、まず佐々木敦著『ゴダールレッスン~あるいは最後から2番目の映画~』(フィルムアート社)より引用する。
(引用文)
『映画史』ではそれぞれの「音」の間に、いかなるレヴェルでも序列がもうけられていない。ある曲がある曲よりも重要な扱いを受けるというようなことは、まずほとんどない。あらゆるサウンドはまったく同等の権利のもとに、作品内部に縦横に散布されているのだ。要するに、「ゴダールの80年代」のサウンドトラックにおいて、徐々に進行していった事態とは、その「音」の配置が「中心」を欠落させてゆくプロセスである。それは言ってみれば「主旋律」を欠いたシンフォニーなのだ。
これは勿論サウンドだけでなく、光学的な側面からも言えることだ。ゴダールは第一章で述べた映像のノイズ性の取り扱い方において、極めて真摯な態度を取り続ける。エイゼンシュテインが排除しようとした映像のノイズを、それこそが重要なこととしてそれを映画史の中に取り込もうとする。この行為のことが、まさにゴダールが確立した(Son + Image=Sonimage)の概念であると言える。それは、「音と映像が全て等価なもの」として捉えようとする視覚×聴覚を分裂してリミックスする、今で言うところのDJのように編集を引き受けることだ。
『映画史』はこのようなリミックスの感覚によって、主観的に、かつ動物的な感覚でもって視覚と聴覚をモンタージュさせ、独自の映画史を編んでいく。これはまさにエイゼンシュテインのもつオーヴァートーンによって駆動するモンタージュ論の集大成といえるだろう。なにせ、『映画史』の素材自体全てが「ノイズ」なのだから。
第3章/演劇の聴覚×聴覚ソニマージュの可能性。
さて、ここで話をベケットに戻したい。ベケットはこのような視覚×聴覚のソニマージュを、戯曲『カスカンド』において聴覚×聴覚で可能かどうか試そうとしたのではないか。この考えは、現在DJの技法、もしくはヒップホップによって継承されているが、もちろん60年代当時は、存在していない。
『カスカンド』は、音楽と声をカッティングし、それらを一小節くらいの短い文節に区切って同期させている。これは演出上の問題なので、戯曲だけを見る限りでは、はっきり言って、それがどれほど同期しているのか、それともまったく同期されていないのか、などの詳しい音楽と声のマリアージュの様子は分からない。だが、ここで問題なのは、登場人物の一人「聞く人」は見ることをやめてしまったことにある。
(引用文)
聞く人 ひとは言う、それはやつの人生じゃない、それで生きてはいない。
ひとにはわたしが見えない、わたしの人生が見えない、なんで生きて
いるか見えない、それなのに言う、それはやつの人生じゃない、それ
で生きてはいない。
このセリフは、まさに生きるべくして、トーキーの登場によってうまく生きて行けなかったサイレイト映画のセリフとして受容できるはずだ。それはなぜだろう。「聞く人」は、最後に「まるで腕でも組んでいるかのようだ」と、声(=聴覚)と音楽(=聴覚)の素晴らしいマリアージュに感動している。これは、前作『言葉と音楽』における「絶望したため息」とは全くの反対の表現であるからだ。
本質的に聴覚だけのメディアにおいて視覚との分断は存在していないので、このようにまずベケットは、映画にたいする前提としての、聴覚×聴覚へのソニマージュを試み、それをいかに素晴らしく成功するものであるかを高らかに宣言しているのである。つまり、「全ては頭の中のこと」と聞く人が言うように、声を聴覚のみにより頭の中で「一つの映像」へと変換することで「他のと同じの」イメージとして音楽とソニマージュが可能である、というように創作したのだ。
このことに関して、例を挙げるならば2010年7月にアサヒアートスクウェアで催された「吾妻橋ダンスクロッシング」において、飴屋法水作/演出『つるとんたん』を挙げたい。
この作品は、飴屋本人が音楽をその場でDJとしてプレイして、3人の登場人物が別々にマイクをもって話すことでやり取りされる。そのため、私たちは全くそれぞれ個別の声を聞く術を持たない。一人の声に集中しようとすると、もう一人の絶叫に遮られて、音楽だけを聴こうとすると、唐突に止まってしまう。このように、聴覚×聴覚×聴覚×聴覚に分断され、それぞれの声を頭の中にイメージして、自由に他の聴覚を選びソニマージュさせると言う、「選択的な聴覚ソニマージュ」を可能としている。これは、映画ではあり得ないことだ。なぜなら、映画では見ることがそもそも視覚と聴覚が分断しているという前提があるわけだが、演劇では実際に行われている目の前で行われることなので、そのような断裂が行われない。これは第二章で述べた、このような分断を感じにくいとした、演劇固有の問題が映画の側から逆意識化されたことから顕著になった考えだ。
このように、現在においては、演劇は視覚×聴覚のソニマージュに苦心する映像メディアを尻目に、聴覚×聴覚のソニマージュへとモンタージュ理論を援用し、我々に新たな聴覚の分裂を意識化させる試みを連綿と行っているのである。
最終章/まとめ
我々は、映像、映画、演劇、音楽の考えを横断して、さまざまな理論、視覚(見ること)と聴覚(聞くこと)の在り方を考えてきた。当初聞くことだけであった演劇が、内面を表現するための演出的必要性にかられ、見ることを意識するようになった。その後同時進行的に映画メディアが開発され、映像を見ることが、いかにノイズが横溢されたものまで見ていることになっているかを、エイゼンシュテインのモンタージュ理論によって痛感したことだ。さらに映画のトーキー化によって、そのようなモンタージュ理論を駆動させるオーヴァートーンがハリウッドによって無し崩しにされたことを見た。ベケットは、そのような映画のトーキー化を許さず、独自に聴覚×聴覚のソニマージュを自作によって試みた。それが、現在の先進的な演劇ではさらに応用的な方法で、聞くことに対する分断を意識化させていることへと連綿と繋がってきたのであった。
(文責/三野新)
ゴダールシンポジウムvol.2

皆さん
ついに、去年始めたゴダールシンポジウムが、ついに今年も開催が決定いたしました!
映画初心者、全然オッケー!!!な、このシンポジウム、大変刺激的な内容になること確実!!是非ともお越し下さいませ!以下詳細です!!
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ゴダールシンポジウムvol.2
[10年代に来るべき音楽のためのゴダールレッスン]
日時:7月17日(土)17時開場 17時30分開演
場所:早稲田大学 小野梓記念講堂
http://wasedabunka.jp/about/access
パネリスト 菊地成孔(音楽家)×佐々木敦(批評家)
(敬称略・50音順)
料金・予約:無料/不要
主催:早稲田大学 表象・メディア論系
ゴダールシンポジウム実行委員会
詳細
去年から始まり、前回大反響を引き起こしたゴダールシンポジウムが、今年も開催する運びとなりました!
ゴダール作品を映画を職業とする人以外のパネリストの方々が語る試みです。
前回は、ダンス×演劇×ゴダールを主題に据えて、ダンス批評家/音楽家の桜井圭介さん、音楽家/批評家の大谷能生さん、劇作家の宮沢章夫さんと批評家の佐々木敦さんが全く新しいゴダール作品に関する地平を広げて頂きました。
今回はまさに直球!
音楽×ゴダールです。
パネリストは、最新著作「ユングのサウンドトラック」(イーストプレス刊)にて、音楽の観点から映画を語る試みされたばかりの菊地成孔氏と、かつて伝説の著作「ゴダールレッスン」において、映画批評のカッティングエッジとして活躍され、現在は様々なジャンルにおける批評家として活躍されている佐々木敦氏を迎え、濃厚なシンポジウムを行います!
是非ともお越し下さい!!
17時30分 参考上映
18時 佐々木敦氏によるプレゼンテーション
18時30分 菊地成孔氏によるプレゼンテーション
19時 両氏によるパネルディスカッション(質疑応答あり)
また、番外編と致しまして、
日時 7月20日(火)18時30分開場/19時開演
場所 SNAC(清澄白河駅徒歩5分)にて
ゴダールシンポジウム@SNAC「~全く新しい大島渚~」 も開催致しますので、こちらも足をお運びください! 詳細→ http://snac.in/?p=432
以上です。
どうぞよろしくお願い致します!!


