ショッキングなタイトルでごめんなさい。
お酒、旅行、仕事、映画鑑賞とたまに音楽のことしかほとんど書いてませんが、
実は読書は小さいころからライフワークなのです。
でも大学に入ってからあまりたくさんは読まなくなり、
大学院入ったあたりからは
読みたい本は山のようにあるのに、
今度は集中して読む時間を確保するのも簡単ではなくなり。。。
でも、だからこそ週末の昼下がりなんかに、
ソファーで横になりながら本を開くのは何とも贅沢な時間なのです。
まあ、大抵そのまま寝ちゃうんですが。。。
という訳で久しぶりの読書の記録です。
今回読んだのはHermann Hesse(ヘルマン・ヘッセ)の
“車輪の下”(“Unterm Rad”)です。
1905年に発表されたドイツの小説です。
もちろん日本語訳で読みました。(岩波文庫版です。)
中学生の頃、
学校が激しく読書を推奨していて、
配られた推薦図書のリストにこの本もあったこと未だに覚えているのですが、
当時からもう12,3年も経って漸く本を手に取った訳です。
以下、小説の結末とか本質に触れる内容を書くので、
ネタばれとかお好きじゃない方は、ご注意下さい。
簡単なあらすじです。
田舎の秀才児ハンスが、
その才能を高く評価した大人たちに囲まれ
勉強ずくめの幼少期を過ごし、
過酷な受験を経て親元を離れ州立の神学校へ入学し、
思春期を迎える中いろいろあって、
規則に縛られ詰め込みの勉強に耐えられなくなり神経症を起こし、
田舎へ帰り療養生活に入る、
と言ったのが話全体の8割程。
その後、鬱々だらだらと生活をしているうちに、
恋をして、精神も立ち直りを見せ、
機械工の見習いとして再び自らの人生を歩み始めたところで、
酔っぱらって川に落ちて溺死するという締めくくりです。
はい、非常に惨めな話です。
タイトルに含まれる「車輪」とは、
社会が自分に対して望む「あるべき姿」へのプレッシャーの比喩で、
例えば岩波文庫の本の紹介文には
「重い『車輪の下』にあえなく傷つく少年の魂を描く、、、永遠の青春小説」
と。
さて、これは本当に『永遠』の青春小説なのか。
周囲の大人から、
釣りとか、動物を飼うとか諸々の
子供らしく楽しむいろんなアクティビティを禁じられ、
毎日がりがりガリ勉のハンス少年。
なまじ頭が良かったせいで、大人たちの期待を受け、
その期待にこたえるために
誇りさえも感じながら
「大人のため」の教育を全うするのです。
その教育の内容というのは、
牧師になるための基本的な教科の延々とした座学。
これは例えば今の日本の教育の状況にも非常に似た部分を感じます。
そして、苦労の末、優秀な成績で
州内のエリートのみが入学できる神学校へ。
田舎に残した父や恩師達の期待を受け、
続けて勉強を楽しみ始めたけれども、
でも、作者の説明するところによる
「幼少期に子供らしいこともせずに、勉強をしすぎた」
ために、勉強することの意味を見失い、
自分自身も見失い神経が参っていくハンス。
なる程、これも例えば現代日本でも多分起こっていることです。
問題はその後。
田舎へ帰って、まだまだフラフラの状態ながら、
一時は自殺願望まで抱いたハンスは
これまで歩んだ勉学の道を放棄して、
機械工の見習いになるわけです。
ここでのポイントは、
作者はきっちりと、
「座学の勉強のみが大事なわけではなく、
あらゆる職業にプロフェッションがあって、
どれもたやすく習得できるものではない、尊敬されるもの」
といった説明を加えます。
(ちなみに、ヨーロッパは今もこういう考えが強く残ってます。)
ろくに手を動かす仕事もしたことが無かったハンスは、
過酷な仕事に必要以上のプレッシャーを感じながらも、
何とか仕事を楽しもうとします。
で、仕事を始めたその週末、
幼なじみでもある仕事仲間に週末飲みに誘われ、
大した量お酒を飲んだこともなかったのに、
不安を感じながら口に運んだお酒に気分が上がってしまい、
限界以上に飲み、
結局そのせいで家路の途中に川に落ちると。
勉強に関して、
周囲の大人の期待にこたえられるほどハンスの精神が
そもそも強くなかったっていうのが、大前提。
そんな脆い精神のハンスでも、
子供のときにもっとのびのびと子供らしく過ごしていれば、
あるいは勉強の道も残されたかもしれないというのがひとつの派生形。
でも、20世紀初頭のドイツ社会の
ある種の不当な要求に応えられなかったハンスは、
誰かから格別な期待を寄せられた訳でもない職に就いても、
それまでお酒の飲み方を体で覚えたこともなく、
ここでも結局ある種の社会のルールに馴染めなかったことが原因で、
結局酒に飲まれ、あっさりと命を落とすことに。
この小説が言ってることって、
社会に馴染めない状態に生まれなければ、
文字通り淘汰されちゃうってことじゃないのかと。
良心的で一般的な解釈をしたら、
「そもそも人間らしくのびのびと育てる環境が大事」
ってことだけども、
その前提を不運にも踏襲できなければ、
「さもなくば、もうその世間じゃ生きてく場所は無い」
ってことですよね。
そもそも作者の青少年期の自伝的な小説であって、
ハンス少年に未来を与えることは難しくはなかっただろうに、
何故作者は彼を死なせなければならないのか、
それも自殺ではなく、事故で死なせなければならないのか、
考えれば考える程、
当時のドイツの社会において、
社会への適応能力が無ければ
真っ当に生きていくことが難しいんだ、っていう暗示が強く感じられるのです。
結局勉強がどうのって言うより、
そもそものあらゆるものを含めた社会システムが大きな『車輪』だと。
で、ここで現代社会に目を向けます。
今や『車輪』は更に複雑多様になっていて、
そもそも「人間らしく育つ」ってこともよくわからないと。
例えば日本だと、簡単な例で、
田舎育ちと都会育ちの違いを実感するのはまだ簡単だけど、
じゃあそのどっちが人間らしいの?とかって疑問にすらできない。
となると「さもなくば、もうその世間では…」と理屈はもはや成立しません。
この「さもなくば…」が成立しないせいで、
自分の人生・あるいは命の価値を必要以上にネガティブに評価するのは
驚くほど簡単なのです。
アイデンティティの確立というのは、
この『車輪』が明確なシステムを持っている限り、実は簡単なことで、
現代の人がなんで
「個性がどうの」とか「自分らしさがどうの」って固執するのも、
自分の小さな世界では社会を映せ無い程、
社会が複雑になってしまったせいなのだと僕は常々思っているのです。
自分では測れない『車輪』と
自分の理想の間に挟まれて、
それでも生きるには不足のない社会で、
自分の命を断つなんてことを発想するのも、
やはりは想像には難くない。不幸なことですが。
小説内で、
ハンスの事故死は現代人にとっては衝撃の大きい出来事ですが、
自殺をしたという結末なら、現代のコンテクストの上では腑に落ちてしまう。
逆に言うと、きっと当時の人には仮にハンスが自殺をしたならば
それは衝撃的な結末だったのだろうと想像するのです。
なんか、自分の心の鏡のような小説で、
なんとも奇妙が読後感を得たのでした。
- 車輪の下 (岩波文庫)/ヘルマン ヘッセ
- ¥483
- Amazon.co.jp