名脇役
どんな映画やドラマにも、作品には欠かせない名脇役がいます。
「天国への階段」においても素晴らしい脇役が登場が2人登場します。
5人の主人公のように視点(心理描写)こそありませんが、本書にとって重要な人物です。
捜査一課長 水原
「捜査活動というのは、その実線で行われなければならない、との信念を持っています。
人間のとる行動というのは、決して点線ではあり得ないからなのです。―中略―この及川のように、ひとがある日突然殺される。それは害者の実線とホシの実線とが交錯したということなのです」
初期の捜査会議において、突発的な事件でない限り因果関係は必ずある、という捜査の重要な指針を示しました。
序盤のうち、桑田の見解は神保管理官にことごく否定されますが、そのような中でも水原課長は桑田の捜査の方向性を支持し、桑田のモチベーションをキープさせていました。
そして、捜査が佳境に入るころには、各捜査員が調べ上げた事柄のひとつひとつを常に一段高い所から俯瞰するように見つめています。
「今や江成議員は、銀行からの融資もままならないほどに追い詰められているらしい。となれば街金融を頼ったとしてもふしぎではない。
そしてその情報が柏木の耳に入ったとしたら、彼はどうすると思う?」
―中略―
「柏木が手を回して、『片岡ファイナンス』に融資を実行させた…」
口にする桑田の胸のなかは今度は一課長に対する敬服のおもいでいっぱいになった。
カシワギコーポレーション常務 児玉亮
桑田が「近ごろじゃ、めったにお目にかかることができなくなった人種のひとりだ」というように、大名家の番頭のような人で、普通の小説にはまず出てこないキャラクターです。
―社長。錦ヶ浦での私のことばを憶えておられますか。私はなにがあっても、社長を裏切るようなことはしません。
万が一の場合は、すべてを抱え、あの崖下に身を投げる覚悟があるともお話したはずです。
公私ともに身を捧げ、ついにはすべてを抱えて柏木を守り通しました。
ひとりの人間がここまで心酔させる柏木とは…。
いい意味での柏木の引き立て役なのだと思います。
「誤解」
本書の魅力は5人の主人公の心理描写ですが、ではストーリー上における「天国への階段」最大のポイントはどこでしょうか。
物語の根幹を成す、ともいえる箇所です。
それは「誤解」だと思うのです。
及川は柏木に金を要求しました。一馬のことを伏せ、私利私欲のためではない、ということがいずれ柏木に分かってもらえると思いこんで。
柏木は、「おまえには他にすべき大切なことが残されている」という及川のことばを脅迫と受け止め、殺害しました。
「すべき大切なこと」とは、一馬に対する責任という意味を込めた及川でしたが、ことばが足らずに、柏木は昔の強盗傷害の償いをすべきと解釈しました。
及川は、最後まで一馬に実の父親と思われて旅立ちたかった、柏木は復讐を果たすために昔の事件が公になることを防ぎたかった。
どちらの気持ちも人間として自然であり、共感できますね。
また、捜査会議でも串田係長が見事に看破しています。
一馬のことを打ち明けずに金を要求したという小さな小さなことが、本書の核を成し、これをなくして本書は成り立ちません。
回想シーンは心の中で
段落が変わり、時間を遡って過去を描写するシーンがあります。
過去をさかのぼることは小説において必要不可欠ですが、本書「天国への階段」では、主人公が胸のうちですべて回想しています。
これがかなり重要だそうで。
1.
そのはるかむこうには麻布界隈の街のネオンが瞬いている。
今児玉が口にした、命すらも惜しくはない、ということばが柏木に彼とのめぐり合いをおもい出させた。
児玉と初めて会ったのは、今から十七年前、―中略―その一年後、柏木は児玉を「カシワギ・コーポレーション」の一員に迎え入れたのだった。
ふと気づくと、児玉が背後に立っていた。
2.
署にむかう桑田の頭のなかには、北海道を発つ前日に訪れた、伊豆熱川に住む助産婦木村栄子の年老いた顔が浮かんでいた。
水原一課長に―中略―との一言を残して「永寿荘」をあとにしたのだった。
九時半ちょうどに、捜査会議がはじまった。
1は、柏木の横にいた児玉が背後に回るわずかな時間のあいだに、二人が出会った十七年前の出来事を会話を使わずに回想しています。
これを通常の会話を使って、
「社長、私をカシワギ・コーポレーションに入れて下さい」
「わかった」
と書くと、現在と過去が混在して読者が混乱してしまうそうです。
2は、桑田が自宅を出て署に到着するまでの道中、一週間前に助産婦のもとを訪ねた出来事を会話を使わず回想しています。
わずか1週間前の出来事ですが、過去のことに違いありません。
これも通常の会話を使って、
「一馬が警察の手をわずらわすようななにか悪いことをしたのですか」
「いいえ、違います」
としてしまうと、わずか1週間前であるがゆえにますます現在と過去がごちゃちゃになってしまいます。
このように、過去の出来事を通常の会話を使って記述することを「カットバック」といい、これを使うだけで駄目な小説という烙印を押されても仕方がないそうです。
そうです、だそうですというのは、この考え方は作家の若桜木さんが提唱していることでして、私も目からウロコでした。
