渡世 | Hack or Fuck ?

Hack or Fuck ?

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photo credit: jaydavisconsulting via photopin cc

これまで3冊、リアリティ・トランサーフィンの本を読んできて、自分の中で醸成されたイメージを言葉で表すとすると、「渡世」である。

言うまでもなく、渡世人の渡世だ。

渡世人とは

巷ではロシア版引き寄せの法則として知られるリアリティ・トランサーフィンから、なぜ渡世人を連想したのかは自分でもよく分からないが、エイブラハムのチャネラーであるヒックス夫妻の語り口と比べて、ソ連時代を経たことによってか、ゼランド氏の抑制の効いた、用心深い印象を与える文章がそんな連想を引き起こしたのかもしれない。

しかし、リアリティ・トランサーフィンとエイブラハム版引き寄せの法則はほとんど変わるところはない。

使われる用語が違うだけだ。

だが、その用語が独特で、それを覚えるだけでも一苦労する。

例えば、「過剰ポテンシャル」というのがある。これは、自分が何かに「過剰」な評価・意味づけをするときに発生する力で、この過剰ポテンシャルは「平衡力」の風を引き起こすとされている。そして「平衡力」は必ず過剰ポテンシャルを解消する方向で働くのだという。

つまり、願望という過剰ポテンシャルは平衡力によって必ず解消され、引き寄せどころかまったく正反対の結果となる。したがって、あなたの願望は叶わない。

そこで、ゼランド氏は重要なのは、願望ではなく、「意図」であるという。その意図が純粋であればあるほど、過剰ポテンシャルの発生を避けることができ、結果としてあなたは人生を思い通りに生きることができるのだという。

要するに、過剰ポテンシャルの発生源はエゴであるということだろう。結局のところ、肥大したエゴはできるだけ相対化しなければならないということだ。

ただ、今回は、あなたの意図がどのようにして現実化するのかという話より、その前段階、「リアリティ・トランサーフィンの修行者」に関しての話だ。リアリティ・トランサーフィンを実践するための心構えのようなことだ。

それはどのようなものか。

まず、上述したように、いたずらに過剰ポテンシャルを生み出さないこと。そのためには、「内なる見張り役」つまり絶えざる自己認識が必要であるということ。

「ペンジュラム/振り子」と呼ばれるあらゆるシステムからの心理的脱却。これはクリシュナムルティの言う「アウトサイダーであれ」を思い起こさせられる。

「振り子」と関わる場合は、常に「頭と体をリース」しているのだということを忘れないように。

他にも色々な用語・造語を駆使して、ゼランド氏は自由な生き方とは何かということを指し示す。

そこで、おれは思う。

リアリティ・トランサーフィンもまた、禅である。▶︎『引き寄せの法則は禅である』
「いずれにせよ、あなたの願望(意図)は必ず叶う。心配するな。融通無碍に生きるのだ」と言っている…ようにおれには聞こえる。

それとなぜ、渡世人が結びつくのか。

決定的なのは、あなたの生き方とは相容れない人や物事は必ず存在する。しかし、彼らもまた「あなたが選択したシナリオ」の登場人物なのだ。同じシナリオの中であなたができることは、「通り過ぎる」ことだけだ、というようなくだりだ。

更にこんな教えもある。

『縁を切るためには、受け入れなくてはならない。受け入れるとは、自分の中に取り入れるということではなく、生存する権利を認めた上で無関心な態度でそばを通り過ぎるということである。』

まるで、「あっしには関わりのねえことでござんす」とクールに呟く木枯らし紋次郎だ。

ここで、やっと渡世人が出てきたが、こうやって言葉にすると、自分自身の短絡的な発想を改めて見せつけられるようで、笑いが湧き起こる。反省は特にない。

短絡ついでに付け加えると、残業代ゼロ法案やブラック企業の問題が湧いている今の世の中を渡っていくためにも、リアリティ・トランサーフィンは有効であるような気がする。そもそも、「トランサーフィン」という言葉には、渡世という意味が含まれているのだろうと、おれは勝手に短絡する。

何より、失望に終わったソビエト共産主義社会を経験したロシアの人々の意識の奥底には、「渡世人」としての資質のようなものが流れているのではないかとも思う。

そういうわけで、リアリティ・トランサーフィンとは、渡世人の心得である。

世の中という「振り子」のあれやこれやをすり抜ける漂泊の渡世人。

過剰ポテンシャルですか…そんなものもありましたっけねぇ…主義主張ですか…そんな大きな荷物はとうの昔に何処かに置いてきやした…ご覧の通りの無一物でさぁ…ほぉ、残業代ゼロですか…あっしには関わりのねえことでござんす。