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『はだしのゲン』閲覧制限を撤回へ 松江市教育委員会
漫画『はだしのゲン』が、松江市立の小中学校の図書館で閲覧制限がかかっていた問題で、松江市教育委員会が各学校への閲覧制限の要請を撤回することが決まった。
Twitterでも数日前からこの件に関する批判的なツイートが激流のごとくタイムラインを流れているのは知っていたが、結果そういうことらしい。
大袈裟に言えば、これはある種の思想統制の動きであると言えなくもないのかもしれない。
だが、同時になぜ当局はこうしたことをしようとしたのだろうとも思う。
いずれにせよ、「はだしのゲン」に描かれている世界観が気に入らない人間がいるということは確かだろう。
ちょっと検索すれば分かるのだろうが、それが誰かにはなぜかあまり関心が湧いてこない。
オーウェルの描いた「1984」のような世界の到来を危ぶむツイートもあったような気もする。
だが、そうした世界を望む勢力がいたとしても本当にそれが可能なのかという疑問もなくはない。
それと、いまどきの市立の小中学の図書館には「マンガ」があるのかという単純な驚きもある。
おれの小中学時代には学校の図書室にマンガなどなかったし、そもそも学校の図書室などほとんど近づかなかったものだが、今は違うのだろうか。
あの頃マンガは自分の小遣いで買うか、買ってもらったり、友だちから借りたりして読むというのがふつうだったし、学校とは別の世界に属するものだった。
もちろん学校にマンガを持ってくることなどそれがどのような内容のものでも、以ての外というような扱いだった。
当時の小学生にとって、「マンガ」とは学校教育とはまったく別の「教養」であった。
それが何十年後には学校の図書室に置かれるようになっていたということを今回の件で初めて知った。
そういう意味では学校にマンガを置かなくてもいいのではないかという気もするが、それが原爆を扱った「はだしのゲン」だからここまで話が大きくなったということは容易に推察できる。
これが永井豪の名作「ハレンチ学園」だったら、話がまた違っていただろう。
まあ「ハレンチ学園」の話はいいとして、仮に松江市教育委員会が閲覧制限を撤回しなかったとしたら実際のところどうなるのだろう。
本当に思想・言論統制が始まるのだろうか。
松江での「はだしのゲン」の閲覧制限を皮切りに反戦的な内容を扱った本が次々と全国規模で制限されていくのだろうか。
で、それでどうなる。
やがて「禁書不法所持」とかで投獄されてしまうような時代が来るのだろうか。
あるいは戦争の記憶を徐々に抹消していこうという動きなのか。
真剣にそうした焚書政策を考える人間もいるのかもしれない。おれにはそんな人々の気が知れないが。
で、まあ仮にそうした政策が「首尾よく」いったとする。
それでどうなる。
悲観的に見れば、国民の思考力・批判力は衰え反体制的な考えは淘汰されていくのかもしれない。
そしていつの間にか全体主義国家となるのだろうか。
しかし果たしてそれが可能だろうか。そんな「物語」が通用するだろうか。
もしかすると通用してしまうのかもしれないが。
そういう懸念が少なからずあるからこそネットを中心として「はだしのゲン」閲覧制限に対して一定以上の声が上がったのだろうと思う一方、そんなに単純に言論統制の方向には進まないとも思う。
進まないというか、進めないのではないか。
もうかつてのように全員が「足並み」揃えることはかなり難しいのではないかと思う。
だからと言って、閲覧制限に対する抗議の声に意味がないというのではないし、そういう流れはあって然るべきだと思う。
ただ、今回の問題は公立小中学校の図書室における閲覧制限であって、発禁ではない。読もうと思えばいつでも読めるのだ。
おれには、そんな読もうと思えばいつでも読める本に閲覧制限をかけようとした教育委員会のセンスの方が気になるし、そんなセンスで揃えられた図書室・図書館にあまり関心が持てない。
そういう無関心な態度が思想・言論統制への道を開くのだと叱られそうだが、そこまでの話なのかという気もしている。
だんだん自分でも何を書いているのか分からなくなってきたが、これはiPhoneが10行程度しか表示されないからだ。
もちろん言い訳だが。
で、結局何なのかと言えば、閲覧制限なんていうダサいことをやるような組織はいずれ消滅するか、もしくは誰も見向きもしなくなるんだろうなということだ。
何だか、誰も来ないお寺がいきなり拝観料を取りますと言い出して、いきなりそれは問題だと抗議したようなものだという感じもしないでもない。
で、そのお寺はあまりの抗議に驚き、拝観料徴収はやっぱりやめますということになって、相変わらず誰もお参りに来ないという状況だけが存続するような気もしている。
そうだとすると、閲覧制限の前に学校に図書室って要るのかという声も出てくるのではないか。
閲覧制限なんてするから騒がれるわけで、そもそも図書室をなくせばいいのではないかという発想も今後、生まれる余地は充分にあると思う。
こちらの方が可能性が高いような気がするが、考え過ぎだろうか。
…ますます自分でも何を書いているのか分からなくなってきた。このままだと際限なく続きそうだから、何とかまとめてみたい。
抗議の声を上げることはおそらく大切だ。そうすることで、多くのことが改善され、改悪を免れることもあるだろう。
でも、そろそろ別の方法も模索した方がいいのではないかという気もしているのも確かだ。
誰かが「お膳立て」してくれる時代はすでに終わりつつあるのだ。
悲観的でも楽観的でもなく、そう思う。
ちなみに自分が「はだしのゲン」を持っていたとして、誰かが読みたいと言うのならおれは貸すなり上げるなりするだろう。
逆におれが本当に読みたいと思うなら買うなり、持っている誰かに借りるなりするだろう。
「教養」とは主体性を要するのだ。
そういうことだ。(どういうことだ⁉)
最後に付け加えると、「はだしのゲン」もさることながら、「ハレンチ学園」も一読を勧めたいと思う。
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