『<わたし> ―真実と主観性』を読んだ | Hack or Fuck ?

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photo credit: Leonard John Matthews via photopin cc

「パワーかフォースか」で知られるデイビッド・R・ホーキンズの「わたし」を読んだ。500ページ超の大作だ。読み終わるまで2週間以上かかった。

サブタイトルには、「真実と主観性」とある。

どんな内容かとざっくり言うと、まあ霊的探求者向けのガイドブックのようなものだ。たぶん…。

簡単なメモを取りながら読み進めていったのだが、結果的にそのメモは数十ページに及んだ。

ホーキンズ博士と言えばキネシオロジーテストによって「意識のスケール」を測定できるという説が有名だが、この本ではそうした「ツール」は背景に控え、「わたしとは何か?真実の自己とは何か?」というテーマがあらゆる角度から哲学的かつ科学的な語り口で解説されている。

実に面白く、かつエキサイティングな本だが、振り返って考えれば古来から連綿と続くスピリチュアルの教えと変わるところはない。まあ当然だが。

「意識のスケール」は背景に退いているというのは、もちろん個人的な感想で、おれがその「スケール」を重要視していないからなのかもしれない。

キネシオロジーテストによって正しい測定を行うためには、実験者自身の意識レベルが、200以上なければならないというくだりを読んで、

「じゃあひとりでキネシオロジーテストをやろうとした場合、どこでおれの意識レベルを測定してくれるのだろう?」

と言うような疑問を持ったというのもある。

ちなみに、意識レベル200以上であれば「パワーの領域」で、200以下だと「フォースの領域」に支配されているという。

まあこの辺りは、「へー、そうなんだ」という程度の感想しかないし、時折引用される「誰々の意識レベルはいくつ」というのも、今のおれの意識レベルではいささか疑問を感じずにはいられない点もある。

例えば、9.11テロの首謀者だったと思うが、当然のようにかなり低い意識レベルだった。

ビン・ラディンも低い測定値だった。(なぜブッシュの意識レベルは紹介されないのか?)

アメリカ合衆国憲法は高い数値だった。

それぞれの数値は「正しい」のだろうが、こうした意識レベルが紹介されることで、何となくアメリカが正義でイスラムは道を誤っているというような印象を与えかねないという気がした。

だからと言ってそれはホーキンズ博士のせいではない。それは読む方の、それこそ「意識レベル」の問題なのだろうし、そうした視点が提示されたということは決して無益ではない。

そして、この本を読むことで霊的探求に関する理解が進むのは間違いないだろうという気がする。

何より、意識のスケールは優劣を数値化したものでも、「ステージ」などと言う卑俗な序列でもなく、『実際は~同じ線上のグラデーションを表しているに過ぎず、異なる線上にあるわけではない』という見解にはかねがね似たようなことを感じてモヤモヤしていたおれにとっては、「それでいい」と言われたようで安心したところはある。

キネシオロジーを使って人間の意識レベルを測定してきた著者が、自らの「悟り」の体験を踏まえ、「悟り」や宗教性、スピリチュアルの真実を明るみに出す。


▲Amazonの書籍内容説明には上記のようにある。

確かにそうなのだろうとは思うが、ある程度スピリチュアルに関する知識がなければとっつきにくいのかもしれない。(まあおれも大してあるわけでもないが…しかもすぐに忘れる…)

最初にも書いたように、ホーキンズ博士が「明るみ」に出すのは、別段新しいものではない。

博士は古来からの「教え」を可能な限り一般的な言葉に翻訳し、ともすればオカルティックに受けとられがちな世界を、「アトラクターフィールド」、「コンテント」、「コンテクスト」等の学術的な用語を駆使して説明していく。

読み進むにしたがって、今までぼんやりとしていた自分なりの様々なスピリチュアルな見解が明瞭になってくる。

十数年前の「体験」を思い出す。

その前日、一睡もせず机に向かって書き物をしていたおれはそろそろ何か食べようと台所に立ち、豚の生姜焼きを料理していた。

突如、「何か」が起きた。

自分が何をやっているのか分からなくなり、ただジュージューと音を立てるフライパンを見つめるばかりだった。

そして、一瞬にして「わかった!」と思いが弾けた。と、同時に笑いが腹の底から湧き上がり、「すべては虚構なのだ」ということが明瞭に理解できた。

あたりを見回すと、目に映るすべてが輝いていた。水道の蛇口、アルミの薬缶、茶碗、タオル、ありとあらゆるありきたりのものすべてが輝いていた。

自分自身が「開いた」と感じた。そして「悟りを開く」という言い回しは本当なのだと思った。また、正確には、「悟りを開く」ということはあり得ないのだとも思った。なぜなら、それは単なる思考による叙述であって、実際、そこにあるのは「開かれた状態」のみだからだ。

開かれた状態の「おれ」の中にあらゆる理解が流れ込んできた。神学の成り立ち、霊の存在、自我の作る幻想、禅で言う「魔境」等の了解がたちまちにして起こった。だが、同時にこのまま行くのは、「マズい」とも思った。

これは今思えば、自我の抵抗だったのだろうと思う。

何にせよ、おれはまだ「現世」というか「幻世」に未練があったということだ。

…そんなこんなで今に至るわけだが、わが生活楽にならざりけりといったところだ。

それは別にいいのだが、そのときの「了解」がこの「わたし」という本にはすべて書かれていた。

ゆえに、個人的には新鮮な驚きはなく、「ああそうだった」という感想ではあったが、あの感覚がこのように言語化されるのかという驚きに似たものはあった。

…と、こうして書いてみるとなんだか偉そうだが、あのときのハイな状態は今はいずこ、おれの今の意識レベルはおそらくグラデーションの下位をゆらゆらと彩っているのだろう。

しかし、思考の向こう側をチラ見しただけなのにおれ自身、それまでとかなり変わってしまった実感はある。それは今もゆっくりと継続中だと思う。まあこれは裏を返せば自我が延命を図っているということなのだろう。必要だとも役に立っているともあまり思えなくなってしまったが。

まあそんなところだ。

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