物語とは | Hack or Fuck ?

Hack or Fuck ?

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先日、読んだ内田樹氏のブログによると、国民国家としての日本は解体過程に入ったという。

で、どうなるかというと、国家は国民ではなく、グローバル企業の利害を優先するのだという。

ケネディの有名なスピーチの枠組みを借りて言えば「グローバル企業が君に何をしてくれるかではなく、グローバル企業のために君が何をできるかを問いたまえ」ということである。



震災以降、そうした時代の到来を薄々感じてはいたが、こうして淡々と述べられるとさすがに憂鬱になる。

憂鬱になりながら読み進んでいくと、「グローバル化と排外主義的なナショナリズム」は矛盾しているかのようだが、実はコインの裏表の関係であるという文章に目が止まる。

国際競争力のあるグローバル企業は「日本経済の旗艦」である。だから一億心を合わせて企業活動を支援せねばならない。そういう話になっている。



そういう話になっていたのか…知らなかった。知らなかったが、仮にこの「話」が首尾よく進んだ暁にはどうなるのだろう。

国民国家が解体した後、排外主義的ナショナリズムを支持した人々はどうなるのだろう。

そもそもそういう人々はなぜ排外主義的ナショナリズムと指摘されるような考えにたどり着いたのだろう。(当人たちは自分たちのことをそういう風には考えてはいないのかもしれない)


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…憂鬱な気分に沈んでいると、不意に物語という言葉が浮かんでくる。妄想が波紋を拡げる。

今、国民国家というひとつのあるいは無数の物語が終わろうとしている。

そう考えると、ナショナリズムに走る人々がいても不思議ではない。

多かれ少なかれ、人は物語の中で生きているからだ。その物語が終わろうとしているのだから、結果がどうであれ、あながち間違いでもないように思える。

だが、グローバル企業による支配が進む過程において彼らは次第に骨抜きにされていくだろう。

そしてかろうじて残ったナショナリストたちはある日、「原理主義者」のレッテルを貼られて弾圧されてしまうのではないか。

今現在、世界中で目の敵にされているイスラム原理主義者たちのように。

…もちろんこれも物語に過ぎない。

事態はもっと別の展開を見せるのかしれないし、見せないかもしれない…


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かつて、金嬉老事件という出来事があった。

金嬉老は日本という物語から弾かれた者の一人であると同時に朝鮮という物語を奪われた者の一人だ。

…また、物語だ。

そして物語を持つか持たないかで人生は大きく変わる。

その物語のひとつが終わろうとしている。

…近年、「リテラシー」という言葉がさまざまな場面で使われるが、それも物語の終焉と無関係ではないのだろう…

あなたは自前の物語を持っているだろうか。

それともグローバル企業によるPB的な物語に乗り換えようとしているところだろうか。