前回は、「因」と「縁」と「果」の関係をお話ししました。

「因」と「縁」とがそろってはじめて「結果」が生じる。
どんな場合も、例外はありません。

しかも、善い結果であれ、悪い結果であれ、私に現れた運命(結果)のすべては、“私の行為”が「原因」である、と教えられます。

酒を飲めば、飲んだ人が酔っ払う。
お餅をノドに詰まらせたら、ノドに詰まらせた人が苦しむ。
善いのも、悪いのも、自因自果です。

他人のせいで、私が苦しむというような“他因自果”は絶対にありません。

「確かに、理屈はそうかもしれないけど、他人のせいで、自分が苦しむことって、あると思うけど…」
そう思う人も多いと思います。もっともな疑問です。

世の中には、一見すると自因自果と思えないことがたくさんあります。

「自分がこんなに苦しんでいるのは、あの人のせいだ」
「あいつが、あの時、あんなことを言ったから、 オレはこんな目にあったんだ。悪いのはあいつだ」

自分があまりに不幸で、惨めな目にあうと、とても自因自果とは思えず、他因自果のようにしか思えないことがあります。
しかし、仏教では、どんなことも例外なく、自因自果だと教えられています。


それを他因自果のように思うのは、「ナワをうらむ泥棒」と一緒だよ、と言われるのですが、それはどういうことなのでしょう?

御用となった泥棒がナワで縛られ苦しんでいる。
泥棒は“オレを苦しめているのは、このナワだ!”と考え、ナワを恨んでいる。

そんな泥棒を見たら、誰もが「バカな泥棒だなぁ」と愚かに思うでしょう。
泥棒を苦しめているのは、ナワではなく、泥棒自身の犯した“盗み”という行為に他ならないからです。

ところが、目先のことしか分からない泥棒は、自分を苦しめているのはナワだと思い、過去に犯した悪の行為の結果とは、ユメにも気づかないのです。

世の中に、ナワがどれだけあっても、縛られて苦しんでいるのは、その泥棒だけです。

そのような結果を招いたのは、間違いなく、泥棒自身の行為なのですから、恨まねばならないのは、自身の行為であって、ナワを恨んでいるのは、お門違いだというのは、誰でもわかると思います。


しかし、この泥棒を笑える人はどれだけあるでしょう?

「自分がこんなに苦しんでいるのは、あの人のせいだ」
「あいつが、あの時、あんなことを言ったから、オレはこんな目にあったんだ。悪いのはあいつだ」
と、他人をのろい、相手を憎む心はないでしょうか?
とんでもないものを恨んだり、腹を立てたりしていては、幸せにはなれないでしょう。

現在受けている一切の運命は、自分がかつて創造したものであり、未来の運命は、これから自分が創造していくものなのです。


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