仏教の根幹である因果の道理は、正確には「因縁果の道理」と言われます。
ここは大切なところです。
よく知って頂きたいと思います。
「因」と「縁」と「果」の関係を知るために、“お米”を例に考えてみましょう。
“米”を「果」としますと、米はモミ種から作られますから、「因」は“モミ種”です。
でも、いくらモミ種があっても、畳や机の上に蒔いていては米にはなりません。
モミ種が米になるには、土や水、日光、空気、肥料などの助けが必要です。
仏教では「因」が結果になるのを助けるものを「縁」と言われます。
因だけでは、結果は生じません。
すべてのことは、因と縁がそろって、初めて結果が現れるのです。
次に、目に見えない「業力」というタネが、縁と結びついて、幸福や不幸という目に見える「運命」となって現れることを次のような歌で説明しましょう。
「年毎に 咲くや吉野の 山桜 木を割りてみよ 花のありかは」
という歌があります。
毎年、毎年、見事に花を咲かせる吉野山の桜も、冬に行ってみると、枯れ木のような木がツクンツクンと立っているだけ。
「あれだけ見事な花を咲かせるのに、花びらはどこに隠しているのだろう」
と、木を一分刻みに刻んでみた男があったそうですが、当然ながら花びらはどこにもありませんでした。
それもそのはず、木の中に蓄えられている目に見えない“勢力”が、“春の陽気”という縁と結びついたとき、初めて満開の花を咲かせるのです。
春の陽気なしに、桜の木は花を咲かせることはありませんし、どれだけ春の陽気があっても、木が枯れていては花は咲きません。
「因」と「縁」とがそろって「結果」が生じるのです。
目に見えない業力も、縁が来れば確実に、善因には善果(幸福という運命)、悪因には悪果(不幸や災難という運命)、それぞれ結果を開きます。
善い種を蒔いて、すぐに結果が現れないからといって、焦ったり、残念に思う必要はないのです。
縁がそろっていないだけで、縁がくれば必ず結果は引き起こります。
悪いことをして、すぐに悪い結果が現れなかったからといって安心は出来ません。
縁がくれば、必ず悪果を引き起こします。
“業力は大象百頭に勝る”と お釈迦さまは教えられています。
業力は、何ものをもってしても止められないものすごく強い力なのです。
自分の運命のすべては、自分自身の行為が生み出した結果です。
自分のやった行為には、自分が責任を持たねばなりません。