私たちの運命は何によって決まるのか?

お釈迦様は、「行為によって決まる」と教えられました。
それについて、もっと詳しく学びましょう。

行為のことを仏教では【業(ごう)】と言います。
インドの言葉では「カルマ」と言われます。

私たちのやった行為は、【業力(ごうりき)】という目に見えない力となって残り、決してなくなりません。

これを【業力不滅(ごうりき ふめつ)】と言います。 

その不滅の業力はすべて、【阿頼耶識(あらやしき)】と いう私たちの本心に蓄えられるのだと仏教では教えられます。 
「阿頼耶(あらや)」とは、昔のインドの言葉です。意味は、「蔵」ということ。
「識」は心のことですから、「阿頼耶識」とは、“蔵のような心”と言えましょう。
この阿頼耶識に、私たちが日々造り続けている無量の業力が蓄えられるのです。


肉体の命は、およそ7、80年、長くてせいぜい100年ですが、この阿頼耶識は、悠久の過去から永遠の未来へと流れていく不滅の生命です。
肉体が生まれて、50年や100年の間で死ぬのは、永遠の生命の流れから見れば、とうとうと流れる大河の水面に泡がポツンと生じ、やがてパッと消え去るようなものでしかありません。 

不滅の業力を蓄える阿頼耶識は、肉体が滅びても、滅びることのない永遠の生命である、と仏教では教えられています。

その阿頼耶識は“暴流(ぼうる)のごとし”と教えられます。
「暴流(ぼうる)」とは、激しい流れのことで、滝のようなものです。 
滝は、遠くから見ると一枚の布のように見えますが、実際は、激しく流れていて、一時として同じ水ではありません。

“ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず”

『方丈記』(鴨長明)の冒頭のように不滅の阿頼耶識は暴流のごとく、絶えず変化しながら続いていくのです。 


行いには、

・身業(しんごう):体の行い=体でやる
・口業(くごう):口の行い=口で話す
・意業(いごう):心の行い=いろいろのことを思う

の三業があります。これを“身口意(しん・く・い)の三業”と言われます。

法律や道徳では、体と口の行ないを問題にしますが、仏法では“心”が最も重視されます。

心で思ったことを、体で行い、口で言う。心はあらゆる行為のもとだからです。

“殺るよりも 劣らぬものは 思う罪”と言われます。 

「殺る(やる)」とは、体で殺すことですが、心で殺す罪はもっとも恐ろしい、ということです。

ですから、心で日々思っていることこそ、私たちの運命を大きく左右していることを知らなければなりません。

心と口と体の3つの行為が、目に見えない業力となって阿頼耶識に蓄えられ、やがて未来の運命を生み出すのです。


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