幸福や不幸という運命の原因と結果の関係について、仏教ではどのように教えられているか、お話しましょう。
お釈迦さまは次のように教えられています。
善因善果 (ぜんいん ぜんか)
悪因悪果 (あくいん あっか)
自因自果 (じいん じか)
「善因善果、悪因悪果」とは、「善い種をまけば、善い結果が現れる。悪い種をまけば、悪い結果が現れる」ということです。
植物で例えれば、ダイコンの種をまけばダイコンが出てくる、キュウリの種をまけばキュウリが出てくる、ということです。
ダイコンの種をまいてキュウリが生えてきたり、キュウリの種をまいてダイコンが出ることは絶対にありません。
まいた種と同じものしか生えてはきません。
まいたものを知れば何が出てくるか分かるし、出てきたものを見れば、まいた種も分かります。
「自因自果」とは、「自分のまいた種は、自分が刈り取らねばならない」ということです。
善いのも悪いのも、まいたその人に結果が現れるのであって、他人のまいた種の結果が自分に現れたり(他因自果)、自分のまいた種の結果が他人に行く(自因他果)ということも絶対にありません。
ここで種(「因」のこと)といわれているのは、私たちの「行い」のこと。
結果(「果」のこと)とは、分かりやすく言えば「運命」のことです。
だからこそ、受験生は、入りたい大学に合格するために一生懸命、勉強をします。
自分の勉強した成果が他の人に行くと思ったら、誰も がんばって勉強する人はないでしょう。
疲れていても、それに耐えて会社に行くのは、自分が働いた分だけ、自分の収入になると思うからです。
給料が、自分の努力と無関係なら、一生懸命働く人もありません。
善い運命(幸福)も、悪い運命(不幸や災難)も、自分に引き起こる運命のすべては、自分のやった行為が生み出すものなのだよ、と教えられているのが仏教です。
これには一つの例外もない、とお釈迦様は教えられています。
せっかく良いことをしたのに、誰も見ていなかったり、評価もされなかったとき、残念な気持ちになることはありませんか?
反対に、悪いことをしたけど、見つからなかった、ばれなかった場合、しめしめ、と ほくそえむ心はないでしょうか?
因果の道理に狂いはありませんから、種を蒔いたのに結果が現れない、ということは絶対にありません。
自分が良い種を蒔けば、必ず自分に良い結果が現れます。
自分が悪い種を蒔けば、その報いは必ず自分に引き起こります。
宇宙に逃げても、たとえ警察や裁判官から逃れることは出来ても、自分が蒔いた種の報いから逃れることは出来ないのです。