今年は、親鸞聖人750回忌
多くの方が親鸞聖人に関心を寄せています。

親鸞聖人は、いったいどんなお方だったのだろう?

そんな疑問に、『親鸞聖人の花びら』では、親鸞聖人についての幾つかのQ&Aが載っていて、親鸞聖人を知ることができます。

親鸞聖人は、今から840年前、平安時代の末期に生を受けられました。
源平の争いで、世の中は乱れ、人々の心は不安に暗く覆われていました。

親鸞聖人のお父様は、藤原有範卿、お母様は吉光御前といわれ、親鸞聖人はご幼名を松若丸と言われました。
ところが、親鸞聖人が4歳のときお父様が、8歳のときにはお母様が亡くなりました。

「死ねばどうなるのだろう……」

次に死ぬのは自分の番だと真っ暗な後生に驚かれた親鸞聖人は、9歳で比叡山・天台宗の僧侶となられました。

親鸞聖人は、9歳から29歳までの20年間、比叡山で厳しい修行に打ち込まれました。
目的は、後生の一大事の解決一つのためでありました。

全身全霊、修行に打ち込まれるものの、なかなか解決が得られず、深く悩まれた親鸞聖人は、かねてから尊敬されていた聖徳太子の御廟に参籠されたのです。

親鸞聖人が比叡山に入られてから10年目、19歳の時のことでした。

そのときにあった出来事について『親鸞聖人の花びら』で紹介されています。

建久2年9月12日、比叡山での求道に行きづまられた親鸞聖人が、聖徳太子の御廟へ参籠され、後生の一大事の助かる道を尋ねられたことがありました。

3日間、一心不乱に後生の一大事の解決の道を祈り続け、遂に失神されたのです。

その時、夢の中に聖徳太子が現れ、次のように告げられた、と記録されています。

「我が三尊は、塵沙の界を化す。
 日域は大乗相応の地なり。
 諦に聴け諦に聴け、我が教令を。
 汝が命根は応に十余歳なるべし。
 命終りて速やかに清浄土に入らん。
 善く信ぜよ、善く信ぜよ、真の菩薩を」

意味はこうです。

「弥陀、観音、勢至の三尊は、チリのようなこの悪世の人々を救わんと尽力されている。
 日本は、真実の仏法の栄えるに、ふさわしい所である。
 よくきけよ、よくきけよ、耳をすまして、私の言うことを。
 そなたの命は、あと10年余りである。
 その命が終わる時、そなたは浄らかな世界に入るであろう。
 だから真の菩薩を、深く信じなさい。心から信じなさい」

「磯長の夢告」といわれるこの聖徳太子の夢のお告げは何を意味するのか、
親鸞聖人は、その後、どうなったのか、『親鸞聖人の花びら』(桜の巻)の16章、17章で分かります。


法然上人のお弟子であった親鸞聖人34歳の時、同じ法然上人のお弟子たちとの間で、大きな争いを3回もなされたことがありました。

今日、親鸞聖人の三大諍論と言われています。

『親鸞聖人の花びら』(藤の巻)には、次の問いが載っています。

【藤の巻・問14~16】親鸞聖人の三大諍論とは、どんなことか
親鸞聖人が、法然上人のお弟子であった時、法友たちと三度も争いをされたということをお聞きしますが、どんなことでなされたのでしょうか。

三大諍論とは、体失不体失往生の諍論、信心同異の諍論、信行両座の諍論の3つです。
それぞれについて、簡単に解説しましょう。

はじめの体失不体失往生の諍論とは、法然上人の高弟であった善慧房証空との争いでした。

善慧房証空が、大衆を前に、
「念仏のお徳によって、死んだら極楽へ往生させて頂けるのが、阿弥陀仏の本願の有り難いところであります」
と説法をしていたことに対し、親鸞聖人は、待ったをかけられ、
「ただ今あなたは、弥陀の本願は死んだら(体失)助けて(往生)くださるとおっしゃいましたが、私は、ただ今救われた(往生)ことを喜ばずにおれません。弥陀の本願は、平生に助けてくださる不体失往生ではありませんか」
と、きっぱりとおっしゃったのです。

親鸞聖人は、この世で救い摂る平生業成の弥陀の救いを明らかにしてくだされたのが、この体失不体失往生の諍論でありました。

次の、信心同異の諍論は、法然上人のお弟子であった聖信房、勢観房、念仏房との争いでした。

この諍論は、法然上人はじめ、聖信房、勢観房、念仏房などの錚々たる人の居並ぶ前で、親鸞聖人が、「法然上人のご信心も、私の信心も全く異なるところはありません」とおっしゃったことから始まりました。

智恵第一、勢至菩薩の化身と仰がれていた法然上人と、同じ信心になれるはずがないと思っていた聖信房や勢観房らには、まさに青天のへきれきであったに違いありません。

「お師匠さまを冒涜するにもほどがる!」
と猛反発。

この諍論に、法然上人はご裁断をくだされ、親鸞聖人に軍配をあげられたのでした。
詳しいことが、『親鸞聖人の花びら』で分かります。

親鸞聖人が、自力の信心と他力の信心の相異点を、私たちに鮮明にされたのが、この信心同異の諍論でありました。

3つ目の、信行両座の諍論は、多生にも値い難い阿弥陀仏の本願を聞き念仏を称えていても、念仏に、他力の念仏と自力の念仏のあることを知らないで、ただ称えてさえおれば助かると思っていた法友たちに、親鸞聖人が警鐘乱打されたものでした。

すべての人の救われる唯一の阿弥陀仏の本願は、念仏で助けるという誓いなのか、信心で救うという誓いなのか?
この諍論によって、信心一つで救われる阿弥陀仏の救いが明らかになったのです。

『親鸞聖人の花びら』(藤の巻)で、親鸞聖人がなされた三大諍論の内容を詳しく知ることが出来ます。


84歳になられた親鸞聖人に悲しい事件が起きました。
ご長男の善鸞を、勘当されたのです。

いったいどんな理由からだったのでしょうか。
『親鸞聖人の花びら』(桜の巻)では、次のような質問が載っています。

【桜の巻・問41】親鸞聖人が、わが子を義絶された理由は何か
剣を抜いて殺しに来た弁円にさえ、御同朋・御同行とかしずかれた親鸞聖人が、どうしてわが子・善鸞を義絶なされたのでしょうか。そんな善鸞の言動とはどんなことであったのでしょうか。

剣をかざして殺しにきた山伏・弁円にさえも「御同朋、御同行」とかしずかれた親鸞聖人が、親子の縁を切らねばならなかった善鸞には、よほど許し難い言動があったに違いありません。

嘉元3年7月27日、高田の顕智房が書写したという「義絶状」には、次のように記されています。

又、慈信房のほうもんのよう、みょうもくをだにもきかず、しらぬことを、慈信一人に、よる親鸞がおしえたるなりと、人に慈信房もうされてそうろうとて、これにも常陸下野の人々は、みなしんらんが、そらごとをもうしたるよしをもうしあわれてそうらえば、今は父子のぎはあるべからずそうろう

善鸞が、この親鸞が言ったこともないことを、夜中に善鸞一人に教えたと言いふらし、関東の同朋たちを惑乱させている。そんなことでは、親と子の縁を切るよりほかはない。

親鸞聖人が教えられなかったことを、「これが父の教えだ」と言いふらし、親鸞聖人の厳戒された権力者との癒着まで、親鸞聖人の名の下にすすめた善鸞の言動は、もはや許すことが出来なかったのです。

親鸞聖人のこのような厳しさも、すべては、阿弥陀仏の本願一つを正しく伝えんがためのものでありました。

『親鸞聖人の花びら』桜の巻藤の巻)には、親鸞聖人のお言葉がたくさん掲載されています。
親鸞聖人のことを、親鸞聖人のお言葉で知ることができます。