「念仏を称えたら誰でも極楽へ往ける、と教えたのが親鸞聖人」

と誤解しておられる方が多いのではないでしょうか。

親鸞聖人の教えについて116の疑問に答えられた『親鸞聖人の花びら』(桜の巻・藤の巻 1万年堂出版より)に、念仏の正しい意味について解説されていました。


『親鸞聖人の花びら』藤の巻に、次のような質問が載っていました。

【藤の巻・問7】親鸞聖人とただ念仏の救い
『歎異抄』二章に、親鸞聖人は「ただ念仏して弥陀に助けられた」とおっしゃっています。「ただ念仏さえ称えていれば助かる」のが、親鸞聖人の教えではないでしょうか。

有名な『歎異抄』2章に、
「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」
と書かれてあり、その「ただ」を誤解し、
「ただ口で、南無阿弥陀仏と称えて」
という意味だと思ってしまうのです。

それで
「親鸞聖人は、ただ念仏を称えて救われたのだ」
と思っている人が非常に多くあるようです。

しかし、このような理解が間違いであることは、浄土真宗・中興の蓮如上人のお言葉でもわかります。

名号をもって、何の心得も無くして、ただ称えては助からざるなり
(『御文章』一帖)


南無阿弥陀仏の名号を、ただ、称えていても助からないのである。

ただ口にだにも南無阿弥陀仏と称うれば助かるように皆人の思えり。それは覚束なきことなり
(『御文章』三帖)


ただ口で、南無阿弥陀仏と称えていれば助かるように、みな思っているが、それでは助からないのである。

ただ声に出して念仏ばかりを称うる人は、おおようなり。それは極楽には往生せず
(『御文章』三帖)

ただ声に出して、念仏ばかり称えている人は多いが、それでは極楽へは往けないのである。

ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかり称うれば、極楽に往生すべきように思いはんべり。それは大きに覚束なきことなり
(『御文章』三帖)

ただ南無阿弥陀仏と、口で称えてさえおれば、極楽へ往けると思っているが、それは、とんでもない間違いである。

蓮如上人の時代も、念仏の誤解が多かったので、『御文章』の至るところで教えておられます。

では、『歎異抄』の「ただ念仏して」の「ただ」とは、どんなことなのでしょうか?
そのことも『親鸞聖人の花びら』のこの章で知ることができます。


『親鸞聖人の花びら』桜の巻にも、念仏についての質問がありました。

【桜の巻・問9】親鸞聖人と死んだら極楽
浄土真宗の布教使などの話を聞いていますと、どんな人でもただ念仏さえ称えていれば、死んだら極楽へ往けるように教えられますが、親鸞聖人は、本当にそんな簡単に極楽へ往けると教えられたのでしょうか。

どんな人でも念仏さえ称えていれば、死ねば簡単に極楽へ往って仏になれるように教えられているので、そのような誤解があるのですが、これは浄土真宗でもなければ、仏教でもありません。

仏教を説かれたお釈迦様は、『大無量寿経』というお経に
「易往而無人」
と教えられています。

「往き易くして人無し」ということですが、これは、お釈迦様が阿弥陀仏の浄土往生のことを説かれてから、「阿弥陀仏の極楽浄土へは、往き易いけれども、往っている人が無い」と、おっしゃったお言葉です。

「極楽へ往き易いなら、どうして極楽へ往っている人が無いの?
と誰もが疑問に思われるでしょう。

このことについて、『親鸞聖人の花びら』には、親鸞聖人の『尊号真像銘文』と、蓮如上人の『御文章』のお言葉で解説されています。

親鸞聖人も蓮如上人も、
「阿弥陀仏の極楽浄土へ往き易いのは、真実信心を獲ている人のこと。
 その真実の信心を獲ている人(=阿弥陀仏に救われている人)がはなはだ稀だから、極楽へ往っている人が少ないのだ」
と、お釈迦様が「易往而無人」とおっしゃっていることを明らかにされています。

その真実の信心を獲ることを「信心獲得(しんじんぎゃくとく)」と言われますが、信心獲得とは、どんなことなのでしょうか?

これも詳しく知りたいところですが、また次の機会に紹介させていただきたいと思います。


念仏について、親鸞聖人は3通り教えておられることをご存知でしょうか?

そのことを『親鸞聖人の花びら』桜の巻で学ぶことが出来ます。

【桜の巻・問56】念仏に三通りあるとはどんなことか
「念仏成仏これ真宗」とか「ただ、念仏して」ともありますが、念仏称えることで助かるのが浄土真宗ではないのでしょうか。

普通、念仏といいますのは、口で南無阿弥陀仏と称えることですが、親鸞聖人は称え心の違いによって、念仏に三通りあると教えられています。

ちょうど、同じ涙を流している人でも、悲し涙と嬉し涙とは、心に雲泥の差があるようなものです。
この違いを知らないと、親鸞聖人のみ教えを正しく理解することはできません。


親鸞聖人のご生涯において、この念仏のことで、法友と大きな争いをなされたことがありました。これについては、『親鸞聖人の花びら』藤の巻で知ることができます。

【藤の巻・問16】親鸞聖人の三大諍論とは、どんなことか(三)
親鸞聖人が法然上人のお弟子であった時に、法友たちと三度も争いをされたということをお聞きしますが、どんなことでなされたのでしょうか。

親鸞聖人が34歳、法然上人のお弟子であった時、法友たちと大きな争いを3度もなされたことがありました。これを親鸞聖人の三大諍論といわれます。

その第3に「信行両座の諍論」といわれる争いがあります。

多生にも値い難い阿弥陀仏の本願を聞き念仏を称えていても、念仏に、他力の念仏と自力の念仏のあることを知らないで、ただ称えてさえおれば助かると思っていた法友たちに、親鸞聖人が警鐘乱打されたものです。

「行不退の座」と「信不退の座」の二つの座敷を設けられ、380余人の法友たちに、次のようにおっしゃいました。

「本日は、お師匠さまのお許しを頂き、皆さんにお尋ねしたきことがございます。
 ごらんの通り、ここに、『行不退の座』と『信不退の座』を設置いたしました。
 いずれなりとも各自の信念にもとづかれて、お入りください」

不退とは、阿弥陀仏の救いのことです
阿弥陀仏の救いは、「行」(念仏)でか、「信」(信心)でかと、親鸞聖人が法友たちに問われたものです。

阿弥陀仏の本願は、信心正因(=信心一つで救われるということ)といくら明示されても、行に迷い信に惑う私たちは、ついつい念仏に腰を下ろそうとするのです。

信行両座の諍論は、決して800年前の法然門下にだけあった争いではなく、これからも、絶えず繰り返され、龍華の御代まで続くことを熟知していなければなりません。

このように『親鸞聖人の花びら』のこの章は結ばれています。

親鸞聖人の教えられた念仏の正しい意味を『親鸞聖人の花びら』で知ることができます。