とんちで有名な一休は、こんな歌を詠んでいます。

「人生は 喰て寝て起きて糞たれて 子は親となる 子は親となる」

食べて、寝て、起きて、トイレに行って…。

この繰り返しで、子は親へと成長し、その子供がまた親となっていく。

いつの時代、どこへ行っても、ライフスタイルがどれだけ変わっても、

この繰り返しの人間の姿に違いはないといえるでしょう。


また、同じく一休は、

「世の中の 娘が嫁と花咲いて 嬶(かかあ)としぼんで 婆と散りゆく」

と歌っています。

女性で一番良いときが“娘時代”。

それで娘という字は女偏に“良”と書きます。

娘さんが結婚して“家”に入ると“嫁”になります。

嫁さんが子供を生みますと“嬶”といわれます。

「女は弱し。されど母は強し」

と言われるように、新婚当時はおしとやかでも、お母さんになると鼻高く、どっしりしますから、女偏に“鼻”。

嬶の次に“婆”。

額に“波”が寄って来ますから、女の上に“波”と書くのだとか…。

これが女性の一生ですが、男性も呼び名が違うだけ。

すべて同じコースを辿ります。


歴史で、縄文時代や弥生時代、平安時代や江戸時代のことを習いましたけど、現代と比較して、相当、生き方も変わったなぁ、としみじみ思ったものでした。

でも、一休のこういう歌を聞くと、人間の姿は、本質的には何も変わってないなぁ、と気づかされます。


摩擦で火をおこしていた時代から、今は、ガスとか、ライターとか、一瞬で火をつけることが出来ます。

電気も通っているので、冷蔵庫、電子レンジ、洗濯機などなど、家電製品によって、かなり便利に生活できます。

家も丈夫になって、高層ビルも建てたり出来るようになりました。

移動手段も、自動車、電車、飛行機など、昔は何日間もかけて移動していた距離を、今は数時間で移動できます。

医療も発達して、平均寿命も延びました。


これだけ私たちの生活が、時代と共に大きく変化はしていても、一休に言わせたら、

「何も変わっとらん」

とひと言で片付けられてしまうのかもしれませんね。


食べて、寝て、起きて、出して、の繰り返し。

生まれ、成長し、やがて年をとって死んでいく。


だからまた一休は、

「門松は 冥土の旅の 一里塚」

とも歌ってます。


“冥土”とは、死後の世界のこと。

一日生きた、ということは、一日死に近づいた、ということ。

だから、“生きる”ということは死へ向かっての行進、つまりは、冥土への旅なんだ、と一休は言っているわけです。

年が明けると、「おめでとう」と口々に言っているけれど、1年経ったということは、それだけ大きく死に近づいたということ。

“元旦”は、まさに冥土の旅の「一里塚」なんだ、と。

これまた、すべての人に共通する否定できない事実。


これが人生なんだよ、と言われてしまうと、人間はなんてむなしい存在なんだ、と思えてくる。

だから問わずにいられなくなる。


人は何のために生まれてきたのか。

何のために生きているのか。

苦しくとも、なぜ生きねばならないのか。


生きる意味とは。


自己の存在を問うのは、生きる意味を知りたいからにほかなりません。

人間の奥底には、生きる意味を「死に物狂い」で知りたがる願望が、激しく鳴り響いている、と言った先哲の言葉に、深くうなずかずにおれません。


◆ ひとりごと ◆


一休さんは、アニメでかわいいイメージを持っていたんですが、仏教を学んでいく中で、だいぶイメージが変わりました。

元旦の朝に、京都の町を、どくろに棒をさして「これが本当のおめでたいじゃ」とふれて歩いたという話もあります。

確かに、頭蓋骨には目が出て無いわけですから「目出たい」ということになります。

一休の警告は、何を意味していたのでしょうか。

今回は、このへんで失礼します。



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