しばらくお休みしていました。失礼しました。
寒さに弱く、気温が低くなって、活動が鈍くなったのかもしれません。
(おまえは爬虫類か ぺしっ)
さて、いつものように、何事もなかったかのように、続けたいと思います。
エジプトの砂漠に千古の沈黙をまもるスフィンクスは、
「始めは四本足で歩き、
中ごろは二足となり、
終わりに三足となる動物は何か」
と旅人に問いかけ、答えられない者を食い殺したといいます。
つまり人間に向かって、「人間とはなんぞや」と問うたのです。
政治も経済も科学も、医学、文学、哲学、宗教も、
この問いに答えんとしている、といえるでしょう。
人間とはどんなものか、お釈迦さまは『仏説譬喩経』に、例えで教えられました。
※例え話はこちら
※動画でもご覧になることができます。
お釈迦さまの例え話の最初の部分を振り返ってみましょう。
・・・・・・・・・・
今から幾億年という昔のことである。
ぼうぼうと草の生い茂った果てしのない昿野を、
独りトボトボと歩いてゆく旅人があった。
季節は、木枯らしの吹くさびしい秋の夕暮れ。
家路を急ぐ旅人は、野道に白いものが散らばっているのに気づいた。
初めは気にもとめなかったが、あまりにもたくさん落ちている。
「一体なんだろう」
一つ拾い上げて、ギョッとした。
なんと、人間の白骨ではないか。
火葬場でもない、墓場が近くにあるのでもない。
どうしてこんな所に、しかも多くの白骨があるのか。
旅人は、それ以上足を進めることができなくなってしまった。
(後略)
・・・・・・・・・・
「旅人」、「秋の夕暮れ」について、これまで解説しました。
※旅人
※秋の夕暮れ
今回は、「白骨」に譬えられたものとは何か、せまってみましょう。
旅人は、道に散らばっている白骨を見て驚きました。
「白骨」とは「他人の死」です。
「白骨を発見して驚いた」のは、私たちが日常、
他人の死を見たり聞いたりした時の衝撃を例えられたものです。
死ということは私たちの驚きです。
いかに「死」を嫌っているか。
1、2、3、4、5……、と数えるとき、4を「シ」と読まず「ヨン」と言います。
アパートやマンションで、「4」号室が抜けているところがよくあります。
特に、病院の「4」号室を嫌う人は多いでしょう。
「シ」は「死」に通ずると思ってのことかもしれません。
死をおそれるのは生物の本能です。
「死なんて怖くない」という人が時々ありますが、それは言葉だけのことです。
死を知らずに「怖くない」なんて、どうして言えるでしょう?
仏教は死ぬことばかりを説くから嫌いだ
という人がありますがそれは完全な誤解です。
私たちは本当に死を嫌い、死にたくないからこそ、
仏法を聞き求めるのだということを知らない人なのです。
死ぬのがおそろしくないようになれば気違いです。
「仏法を聞きたい」と思う心は
「命が欲しい」、「死にたくない」という願いです。
金が欲しい、地位が欲しい、名誉が欲しい、異性が欲しいと、
いろいろ欲しいものはあります。
しかし、最後、人間の究極の願いは、
「永遠不滅の生命が欲しい」。これに尽きるでしょう。
◇ ◇ ◇
「まだやりたい事があるので、今しばらく、長命の祈祷をお願いしたい」
80歳の人が高徳のうわさを聞いて良寛の所へやってきた。
「長命といっても一体、何歳くらいまでお望みかな。それが分からぬと祈祷のしようがない」
「90では10年しかない、100歳までお願いしましょうか」
「あとたった20年。101になれば死なねばならぬが、いいかな」
「もっと、お願いできましょうか」
「一体、何歳まで生きたいのか、言ってみなさい」
「それじゃ150歳までいかがでしょう」
「150歳でよろしいか」
「あんまり厚かましくても……」
「そんな遠慮は無用じゃ」
それでは200歳、300歳、500歳と、次第に寿命をせり上げてくるおかしさに耐えながら良寛、
「どうせお願いするついでだ。本心言ってみなされ」
と促すと、
「それじゃ、いっそのこと、死なぬ祈祷をお頼みします」。
とうとう本音を吐いたという。
◇ ◇ ◇
事故、殺人、自殺など、
テレビや新聞で報道される人の死に、心痛めない日はありません。
知人や友人、肉親など身近な人の死であればなおさらで、
何度、声をあげて泣き、涙を流して悲しんだことでしょう。
世界の年間死亡数は、6千万とも7千万ともいわれます。
今日一日だけで、何十万の死者が出ているか分かりません。
このような死の影に驚く人を区別して、お釈迦さまは
「四馬(しば)の譬喩(ひゆ)」を説かれています。
(1)鞭影(べんえい)を見て驚く馬
(2)鞭、毛に触れて驚く馬
(3)鞭、肉に当たって驚く馬
(4)鞭、骨にこたえて驚く馬
「鞭影を見て驚く馬」とは、駿馬は騎手のふり上げた鞭の影が
地上に映るのを見て、叩かれる前に走り出すように、
花が散り、火葬場より立ちのぼる煙を眺めて、
やがて自分を襲う死に驚き、仏法を聞き始める人を言います。
「鞭、毛に触れて驚く馬」とは、鞭の先が、毛に触れただけで
騎手の心を知り走り出す馬です。
これは、葬式や、葬式の行列を見て、わが身の一大事に驚く人のことです。
「鞭、肉に当たって驚く馬」とは、
隣家や親戚の葬式や、眼前で人の死ぬ姿を見て、
無常を感じ仏法を求める人です。
最後の「鞭、骨にこたえて驚く馬」は、
どうしようもない鈍感な馬で、どれほど鞭でたたかれ、
肉がただれてもなお動こうとせず、
肉が破れ、骨にこたえてようやく動き出す馬です。
これは、どれだけ、友人、知人が、姿をもって世の無常を教えても
少しも感ずるところなく、親兄弟等の肉親を失って、
初めて自分に迫る一大事に驚き、聞法を始める人のことです。
私たちの周囲には、如何に多くの白骨が散らばっていることでしょう。
いやいや、私たちは、ただ一人、
白骨の広野にポツネンと立っているとは言えないでしょうか。
メディアの発達した今日、他人の死を耳にしない日はありません。
災害で、何千人の死者が出た、という報道は、
何千人もの白骨を見たに等しいことです。
そうなれば、まさに、私たちは見わたす限り、白骨の野原に立っているのです。
しかし、麻痺し切った私たちのド根性は、
一向に驚く気配もないのは一体どうしたことでしょう。
ニュースを見て、気の毒に思っても、まるで他人事で、
食事の準備や、仕事のことに没頭できるのです。
そのしびれ切った私たちの背後に、迫ってくるものがあります。
続きは次回。
■┓徒然なる ●┓
┗● ひとり言┗■
「いつ、どのタイミングで合掌したらいいの?」
「おじぎの深さは?」
「何か、決まりごとってあるの?」
「数珠って必要?種類は何でもいいの?」
仏教のことは、わからないことが多いですよね。
実際、よく質問を受けます。
私が仏教を聞き始めた当初も、いろいろ教えてもらいました。
今回は、その中の一つを紹介しましょう。
大無量寿経や、親鸞聖人の教行信証、蓮如上人の御文章などが
まとめて収まっている「真宗聖典」(法蔵館)を、
そのまま畳の上に置いていたところ、先輩から、
「仏法のものだから、大切に扱おうね。
地べたに置くと粗末になるから、直接、置かないように気をつけよう」
と教えてもらいました。
お釈迦さまの説かれた経典、菩薩の著された論、
また歴代の善知識方の書かれた書物を聖教(しょうぎょう)と言います。
すべての人にとって、最も大切な人生の目的が書かれているものです。
だから聖教は、最も大事に、丁重に扱わねばならないものです。
床に、じかに置いたり、またいだり、
また、他の日用品などと、直接、同じかばんに入れたりなど、
教えが粗末になるようなことは慎まねばなりません。
これは、阿弥陀仏を礼拝する際に使う念珠(数珠)なども同様です。
学校の教科書や参考書などの書物でも、
大切に扱うように教えられた方も多いでしょう。
まして、本当の幸福になれる道の説かれた教えが仏法であり、
その教えが詰まった書物です。
一層、大切に取り扱わねばならない、ということは、
教えを求める方ならばお分かりになると思います。
小さい頃から、仏教の教えにふれる家庭で育った方には当然のことでも、
社会人になってからなど、これまで仏教にふれる機会のなかった方には、
「どうしていいか、よくわからない」
ということが多いようです。
今後、そのようなこともブログの記事として紹介していきたいと思います。
(*^-^)
お気軽にお問い合わせください☆
寒さに弱く、気温が低くなって、活動が鈍くなったのかもしれません。
(おまえは爬虫類か ぺしっ)
さて、いつものように、何事もなかったかのように、続けたいと思います。
エジプトの砂漠に千古の沈黙をまもるスフィンクスは、
「始めは四本足で歩き、
中ごろは二足となり、
終わりに三足となる動物は何か」
と旅人に問いかけ、答えられない者を食い殺したといいます。
つまり人間に向かって、「人間とはなんぞや」と問うたのです。
政治も経済も科学も、医学、文学、哲学、宗教も、
この問いに答えんとしている、といえるでしょう。
人間とはどんなものか、お釈迦さまは『仏説譬喩経』に、例えで教えられました。
※例え話はこちら
※動画でもご覧になることができます。
お釈迦さまの例え話の最初の部分を振り返ってみましょう。
・・・・・・・・・・
今から幾億年という昔のことである。
ぼうぼうと草の生い茂った果てしのない昿野を、
独りトボトボと歩いてゆく旅人があった。
季節は、木枯らしの吹くさびしい秋の夕暮れ。
家路を急ぐ旅人は、野道に白いものが散らばっているのに気づいた。
初めは気にもとめなかったが、あまりにもたくさん落ちている。
「一体なんだろう」
一つ拾い上げて、ギョッとした。
なんと、人間の白骨ではないか。
火葬場でもない、墓場が近くにあるのでもない。
どうしてこんな所に、しかも多くの白骨があるのか。
旅人は、それ以上足を進めることができなくなってしまった。
(後略)
・・・・・・・・・・
「旅人」、「秋の夕暮れ」について、これまで解説しました。
※旅人
※秋の夕暮れ
今回は、「白骨」に譬えられたものとは何か、せまってみましょう。
旅人は、道に散らばっている白骨を見て驚きました。
「白骨」とは「他人の死」です。
「白骨を発見して驚いた」のは、私たちが日常、
他人の死を見たり聞いたりした時の衝撃を例えられたものです。
死ということは私たちの驚きです。
いかに「死」を嫌っているか。
1、2、3、4、5……、と数えるとき、4を「シ」と読まず「ヨン」と言います。
アパートやマンションで、「4」号室が抜けているところがよくあります。
特に、病院の「4」号室を嫌う人は多いでしょう。
「シ」は「死」に通ずると思ってのことかもしれません。
死をおそれるのは生物の本能です。
「死なんて怖くない」という人が時々ありますが、それは言葉だけのことです。
死を知らずに「怖くない」なんて、どうして言えるでしょう?
仏教は死ぬことばかりを説くから嫌いだ
という人がありますがそれは完全な誤解です。
私たちは本当に死を嫌い、死にたくないからこそ、
仏法を聞き求めるのだということを知らない人なのです。
死ぬのがおそろしくないようになれば気違いです。
「仏法を聞きたい」と思う心は
「命が欲しい」、「死にたくない」という願いです。
金が欲しい、地位が欲しい、名誉が欲しい、異性が欲しいと、
いろいろ欲しいものはあります。
しかし、最後、人間の究極の願いは、
「永遠不滅の生命が欲しい」。これに尽きるでしょう。
◇ ◇ ◇
「まだやりたい事があるので、今しばらく、長命の祈祷をお願いしたい」
80歳の人が高徳のうわさを聞いて良寛の所へやってきた。
「長命といっても一体、何歳くらいまでお望みかな。それが分からぬと祈祷のしようがない」
「90では10年しかない、100歳までお願いしましょうか」
「あとたった20年。101になれば死なねばならぬが、いいかな」
「もっと、お願いできましょうか」
「一体、何歳まで生きたいのか、言ってみなさい」
「それじゃ150歳までいかがでしょう」
「150歳でよろしいか」
「あんまり厚かましくても……」
「そんな遠慮は無用じゃ」
それでは200歳、300歳、500歳と、次第に寿命をせり上げてくるおかしさに耐えながら良寛、
「どうせお願いするついでだ。本心言ってみなされ」
と促すと、
「それじゃ、いっそのこと、死なぬ祈祷をお頼みします」。
とうとう本音を吐いたという。
◇ ◇ ◇
事故、殺人、自殺など、
テレビや新聞で報道される人の死に、心痛めない日はありません。
知人や友人、肉親など身近な人の死であればなおさらで、
何度、声をあげて泣き、涙を流して悲しんだことでしょう。
世界の年間死亡数は、6千万とも7千万ともいわれます。
今日一日だけで、何十万の死者が出ているか分かりません。
このような死の影に驚く人を区別して、お釈迦さまは
「四馬(しば)の譬喩(ひゆ)」を説かれています。
(1)鞭影(べんえい)を見て驚く馬
(2)鞭、毛に触れて驚く馬
(3)鞭、肉に当たって驚く馬
(4)鞭、骨にこたえて驚く馬
「鞭影を見て驚く馬」とは、駿馬は騎手のふり上げた鞭の影が
地上に映るのを見て、叩かれる前に走り出すように、
花が散り、火葬場より立ちのぼる煙を眺めて、
やがて自分を襲う死に驚き、仏法を聞き始める人を言います。
「鞭、毛に触れて驚く馬」とは、鞭の先が、毛に触れただけで
騎手の心を知り走り出す馬です。
これは、葬式や、葬式の行列を見て、わが身の一大事に驚く人のことです。
「鞭、肉に当たって驚く馬」とは、
隣家や親戚の葬式や、眼前で人の死ぬ姿を見て、
無常を感じ仏法を求める人です。
最後の「鞭、骨にこたえて驚く馬」は、
どうしようもない鈍感な馬で、どれほど鞭でたたかれ、
肉がただれてもなお動こうとせず、
肉が破れ、骨にこたえてようやく動き出す馬です。
これは、どれだけ、友人、知人が、姿をもって世の無常を教えても
少しも感ずるところなく、親兄弟等の肉親を失って、
初めて自分に迫る一大事に驚き、聞法を始める人のことです。
私たちの周囲には、如何に多くの白骨が散らばっていることでしょう。
いやいや、私たちは、ただ一人、
白骨の広野にポツネンと立っているとは言えないでしょうか。
メディアの発達した今日、他人の死を耳にしない日はありません。
災害で、何千人の死者が出た、という報道は、
何千人もの白骨を見たに等しいことです。
そうなれば、まさに、私たちは見わたす限り、白骨の野原に立っているのです。
しかし、麻痺し切った私たちのド根性は、
一向に驚く気配もないのは一体どうしたことでしょう。
ニュースを見て、気の毒に思っても、まるで他人事で、
食事の準備や、仕事のことに没頭できるのです。
そのしびれ切った私たちの背後に、迫ってくるものがあります。
続きは次回。
■┓徒然なる ●┓
┗● ひとり言┗■
「いつ、どのタイミングで合掌したらいいの?」
「おじぎの深さは?」
「何か、決まりごとってあるの?」
「数珠って必要?種類は何でもいいの?」
仏教のことは、わからないことが多いですよね。
実際、よく質問を受けます。
私が仏教を聞き始めた当初も、いろいろ教えてもらいました。
今回は、その中の一つを紹介しましょう。
大無量寿経や、親鸞聖人の教行信証、蓮如上人の御文章などが
まとめて収まっている「真宗聖典」(法蔵館)を、
そのまま畳の上に置いていたところ、先輩から、
「仏法のものだから、大切に扱おうね。
地べたに置くと粗末になるから、直接、置かないように気をつけよう」
と教えてもらいました。
お釈迦さまの説かれた経典、菩薩の著された論、
また歴代の善知識方の書かれた書物を聖教(しょうぎょう)と言います。
すべての人にとって、最も大切な人生の目的が書かれているものです。
だから聖教は、最も大事に、丁重に扱わねばならないものです。
床に、じかに置いたり、またいだり、
また、他の日用品などと、直接、同じかばんに入れたりなど、
教えが粗末になるようなことは慎まねばなりません。
これは、阿弥陀仏を礼拝する際に使う念珠(数珠)なども同様です。
学校の教科書や参考書などの書物でも、
大切に扱うように教えられた方も多いでしょう。
まして、本当の幸福になれる道の説かれた教えが仏法であり、
その教えが詰まった書物です。
一層、大切に取り扱わねばならない、ということは、
教えを求める方ならばお分かりになると思います。
小さい頃から、仏教の教えにふれる家庭で育った方には当然のことでも、
社会人になってからなど、これまで仏教にふれる機会のなかった方には、
「どうしていいか、よくわからない」
ということが多いようです。
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そんなに強いものではないですよね。
だけど、ちょっとしたヒントで、昨日より今日、一歩でも
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