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◆進者往生極楽 退者無間地獄
「本山の同志を餓死させてはならない」
北は奥州、南は九州まで、
門信徒の財施による食料、兵員などが、船積みされ、
日本海を迂回し、境港(石見国)より安芸(広島県)へ入り、
毛利の大船団で、大坂湾へ急行しました。
このとき、各地の門徒が多くの財施を石山本願寺へ送ったこと、
各地の坊主、門徒が武具を持って、本山に参戦したことが、
記録や伝承となって伝えられています。
かくて天正4年(1576年)、物資を載せた約600隻の毛利水軍の舟が
出航しました。
大坂湾は、織田方の軍船に封鎖され、アリの這い出るスキ間もありません。
護法の念を燃やした安芸門徒(広島の門徒)たちは、船底に両足を縛りつけ、
「進者往生極楽。退者無間地獄」
の旗をかかげました。
万が一にも、敵前逃亡を防止するためでした。
生還の望みがなければ、一死をもって報恩を、との悲壮の決意。
数時間に及ぶ戦いの末、統率のとれた安芸水軍は、
織田方の兵船をことごとく破り、兵糧は、無事、寺内に搬入されたのでした。
織田信長は、怒り心頭に発し、
「石山が落ちぬのは、攻め手の部将の無能ゆえだ」
と、佐久間信盛などの家来を追放。
信長はキリシタン大名の高山右近などを配備して、
自分の部下の監視に当たらせていますが、
無神論者の信長があれほど、キリスト教をひいきしたのは、
対本願寺戦略でもあったといわれます。
天正6年(1578年)には、信頼していた荒木村重が、
本願寺方に離反し、信長の心胆を寒からしめています。
側近でも、たとえば、
木下藤吉郎の母大政所(おおまんどころ)は、熱心な真宗門徒でしたし、
明智光秀の妹なども、後に寺院を建立するほどの篤信者でした。
そんな所から、信長の動静が、本願寺側へ漏れていないとも限りません。
また雑兵の中には、内心、真宗を信仰し、
カラ鉄砲、カラ弓矢を放っていたものもありました。
彼らは、「白犬衆(城は射ぬ)」と呼ばれていました。
信長はこの頃、疑心暗鬼から、精神に異常を来たし、
家来が信じられなくなり、邪教に媚を売るようになります。
ですが、本願寺がたのみとした、戦国大名も、次々に亡くなり、
天正6年には、信長が大坂湾に浮かべた巨大な鋼鉄船にはばまれ、
輸送もままならなくなりました。
顕如上人は孤立し、ついに天正8年(1580年)講和を結び、
本山を鷺(さぎ)の森(和歌山)に移され、
11年にわたった石山戦争は終結しました。
◆抜き難し、南無六字の城
「濃蹶(のうけつ)・峡顛(きょうてん) いずれか抗衝(こうしょう)せん
梵王(ぼんのう)ひとり 降旌(こうせい)を樹(た)てず
豈(あに)図(はか)らんや右府(うふ) 千軍の力
抜き難し 南無六字の城」
これは、江戸時代の歴史家であり漢詩人でもあった
頼山陽(らいさんよう)の言葉です。
難しい言葉が並んでいますが、語句は以下に解説しました。
※濃蹶(のうけつ):斉藤道三のこと。
※峡顛(きょうてん):武田勝頼のこと。
※抗衝(こうしょう):抵抗すること
※梵王(ぼんのう):石山本願寺の顕如上人(11代目法主)のこと
※降旌(こうせい):白旗、降伏を示す旗のこと。
※右府(うふ):織田信長のこと。
※南無六字の城:石山本願寺のこと。
美濃の斉藤道三も、甲斐の武田勝頼も、
抵抗さえ出来なかった、あの織田信長に、
石山本願寺の顕如上人一人、屈することなく11年間、戦い続けました。
浄土真宗の先達が、信長に屈服することなく、命を懸けて護ろうとしたもの。
それは、いったい何であったのか?
それはまた、今日の親鸞学徒も護らねばならぬものなのです。
親鸞聖人の教えを知ることで、その答えは明らかになります。
◆進者往生極楽 退者無間地獄
「本山の同志を餓死させてはならない」
北は奥州、南は九州まで、
門信徒の財施による食料、兵員などが、船積みされ、
日本海を迂回し、境港(石見国)より安芸(広島県)へ入り、
毛利の大船団で、大坂湾へ急行しました。
このとき、各地の門徒が多くの財施を石山本願寺へ送ったこと、
各地の坊主、門徒が武具を持って、本山に参戦したことが、
記録や伝承となって伝えられています。
かくて天正4年(1576年)、物資を載せた約600隻の毛利水軍の舟が
出航しました。
大坂湾は、織田方の軍船に封鎖され、アリの這い出るスキ間もありません。
護法の念を燃やした安芸門徒(広島の門徒)たちは、船底に両足を縛りつけ、
「進者往生極楽。退者無間地獄」
の旗をかかげました。
万が一にも、敵前逃亡を防止するためでした。
生還の望みがなければ、一死をもって報恩を、との悲壮の決意。
数時間に及ぶ戦いの末、統率のとれた安芸水軍は、
織田方の兵船をことごとく破り、兵糧は、無事、寺内に搬入されたのでした。
織田信長は、怒り心頭に発し、
「石山が落ちぬのは、攻め手の部将の無能ゆえだ」
と、佐久間信盛などの家来を追放。
信長はキリシタン大名の高山右近などを配備して、
自分の部下の監視に当たらせていますが、
無神論者の信長があれほど、キリスト教をひいきしたのは、
対本願寺戦略でもあったといわれます。
天正6年(1578年)には、信頼していた荒木村重が、
本願寺方に離反し、信長の心胆を寒からしめています。
側近でも、たとえば、
木下藤吉郎の母大政所(おおまんどころ)は、熱心な真宗門徒でしたし、
明智光秀の妹なども、後に寺院を建立するほどの篤信者でした。
そんな所から、信長の動静が、本願寺側へ漏れていないとも限りません。
また雑兵の中には、内心、真宗を信仰し、
カラ鉄砲、カラ弓矢を放っていたものもありました。
彼らは、「白犬衆(城は射ぬ)」と呼ばれていました。
信長はこの頃、疑心暗鬼から、精神に異常を来たし、
家来が信じられなくなり、邪教に媚を売るようになります。
ですが、本願寺がたのみとした、戦国大名も、次々に亡くなり、
天正6年には、信長が大坂湾に浮かべた巨大な鋼鉄船にはばまれ、
輸送もままならなくなりました。
顕如上人は孤立し、ついに天正8年(1580年)講和を結び、
本山を鷺(さぎ)の森(和歌山)に移され、
11年にわたった石山戦争は終結しました。
◆抜き難し、南無六字の城
「濃蹶(のうけつ)・峡顛(きょうてん) いずれか抗衝(こうしょう)せん
梵王(ぼんのう)ひとり 降旌(こうせい)を樹(た)てず
豈(あに)図(はか)らんや右府(うふ) 千軍の力
抜き難し 南無六字の城」
これは、江戸時代の歴史家であり漢詩人でもあった
頼山陽(らいさんよう)の言葉です。
難しい言葉が並んでいますが、語句は以下に解説しました。
※濃蹶(のうけつ):斉藤道三のこと。
※峡顛(きょうてん):武田勝頼のこと。
※抗衝(こうしょう):抵抗すること
※梵王(ぼんのう):石山本願寺の顕如上人(11代目法主)のこと
※降旌(こうせい):白旗、降伏を示す旗のこと。
※右府(うふ):織田信長のこと。
※南無六字の城:石山本願寺のこと。
美濃の斉藤道三も、甲斐の武田勝頼も、
抵抗さえ出来なかった、あの織田信長に、
石山本願寺の顕如上人一人、屈することなく11年間、戦い続けました。
浄土真宗の先達が、信長に屈服することなく、命を懸けて護ろうとしたもの。
それは、いったい何であったのか?
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