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◆本願寺決起す

「素直に立ち退け。さもなければ、破却するぞ」


との最後通牒をして、織田信長が石山を包囲したのは、

元亀元年(1570年)8月のことでした。


第11代法主、顕如上人(けんにょしょうにん)は、苦慮を重ねたあげく、


蓮如上人以来、血と涙で守ってきた法城を仏敵にわたしてはならぬ。


と親鸞聖人の教えを守るため、全国に檄をとばし、門徒の総決起を促したのです。


元亀元年(1570年)9月12日夜半。

突如、寺内各所から早鐘がつかれ、大音声とともに、

3000丁の鉄砲隊が火蓋を切り、猛射に呼応し、

4万の門徒が槍や鋤をもって、念仏を称えながら、敵陣に襲いかかりました。


また各地では、南無六字を筵旗(むしろばた)に掲げ、

信長の領国と通路を断ったのです。

無敵の信長軍も、名だたる武将の悲報があいつぎました。



◆信長の長島大虐殺

「本願寺はただの長袖者の集団ではなかった」

驚嘆した信長は、矛先を本山から全国に散在する門徒に転じました。

「敵の将を射んとすれば、まずその馬を射よ」

です。


開戦以来、もっとも手強かったのが、伊勢長島の門徒です。

元亀元年には、信長の弟・織田信興(のぶおき)を尾張小木江城に自害させ、

翌2年には、討伐軍の旗頭、氏家ト全を敗死、

同じく柴田勝家を負傷に追い込んでいます。

信長の長島門徒への憎悪は一様ではありませんでした。


天正2年(1574年)、大軍をもって長島を包囲し、

「海上所なし」

と言われるほど軍船で埋め、鉄砲・大砲をもって、門徒の砦を攻撃しました。

約3ヵ月の攻防の末、長島を陥落させたのでした。


このとき、信長は、「根切り」と称し、降伏は一切認めず、

女子供にいたるまで殺害する、という大虐殺を行っています。


すでに信徒の過半は、餓死し、生き残った者も戦闘力を失っていたのですが、

残忍な信長はいったん許すと誓約をかわし、油断させ、

寺内より投降した信徒を、鉄砲の餌食としたのです。

そして、四方より火をかけ、残る2万の老若男女を焼き殺しました。




>> 浄土真宗の歴史に学ぶ 石山戦争 part-3




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