「濃蹶・峡顛 いずれか抗衝せん
梵王ひとり 降旌を樹てず
豈図らんや右府 千軍の力
抜き難し 南無六字の城」 (頼山陽)
※濃蹶(のうけつ):斉藤道三のこと。
※峡顛(きょうてん):武田勝頼のこと。
※抗衝(こうしょう):抵抗すること
※梵王(ぼんのう):石山本願寺の顕如上人(11代目法主)のこと
※降旌(こうせい):白旗、降伏を示す旗のこと。
※右府(うふ):織田信長のこと。
※南無六字の城:石山本願寺のこと。
明応五年、
蓮如上人が親鸞聖人の教えを宣布する法城として建立されたのが、
かの有名な摂津(今の大阪府)石山の本願寺である。
それより真実を求める人は全国より群参、
石山は大発展し戦国諸大名も無視できない一大勢力となった。
中でも石山の軍事的、政治的要害の地であることに、
いち早く着目した織田信長は、幾度も譲渡の相談を持ちかけてきた。
蓮如上人以来、血と涙で守ってきた法城を仏敵に渡すことはできない。
本願寺が拒絶したのは当然である。
姦雄・信長は遂に元亀元年、石山攻略の大兵を起こしたが、
予期せぬ敗北に大いに士気を喪失した。
反織田の諸将の挙兵もあって、さすが強気の信長も一時撤退を余儀なくされる。
むろん彼は目的を放棄したのではない。
果たせるかな天正4年。
陸海からの猛攻は3度におよんだが、民兵とはいえ真心から守る城は堅かった。
千軍万馬の信長勢も、またまた大敗し
捲土重来を期せねばならなかったのである。
野望あくなき信長の攻撃は、その後も四度、五度と敢行されたが、
護法の鬼となった人々の魂で築かれた『南無六字の城』は、
がむしゃらな兵馬の蹂躙を許さなかった。
永禄3年。桶狭間の奇襲より、戦えば勝ち攻めれば落ち、
朝に一城夕べに一国と領土を広げ、群雄草のごとくなびき、
五畿内の猛将を馬前の塵に蹴った信長も、
石山攻略だけは断念せざるを得なかったのだ。
この恐るべき力は何処からあらわれたのか。
人は城 人は石垣 人は堀
情は味方 仇は大敵
と戦国武将はいう。
外敵を防ぐには、幾万金を投じた鉄壁よりも
人の団結が凄い力を発揮する。
地の利や毛利の援助があったとはいえ、
何ものよりも大きな力は弥陀の本願真実から湧き出ずる
信仰の団結が、法城を盤石の泰きにおいたのである。
諺にいう。
ペンは、剣よりも強しと。
信はまた剣の力に勝るのだ。
(『光に向かって123のこころのタネ 』一万年堂出版より)
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ぴょんたの
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