有名な蓮如上人の“白骨の章”について解説しています。
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>> 蓮如上人の“白骨の章”は、なぜ書かれたのか? (←クリック)
早速、続きを紹介しましょう。
◆相次ぐ無常◆
蓮如上人は、青木家の不幸をお聞きになり、
生前、聞法に励んでいた3人だったので、大変哀れに感じられ、
落涙されること、しばしであったといいます。
そして、これを縁に、世の無常について『御文章』に表そうと思われました。
ところが、続いて8月15日、
山科本願寺の土地を財施した
海老名五郎左衛門(えびなごろうざえもん)の息女が
急死したという報せが入ったのです。
五郎左衛門の娘も17歳でした。
この日、行楽地へ出かけようと、朝早くから髪を結い、
美しく化粧して、大勢のお供を連れて門前へ出たところ、
にわかに気分が悪くなって家へ引き返し、そのまま容態はどんどん悪化。
昼頃には、もう息を引き取りました。
娘の葬儀を終えた海老名五郎左衛門は、
17日、山科本願寺を訪れ、涙にくれつつ、
「我々のごとき仏道懈怠の者に、
なにとぞ人の世の無常を表す御文をお書きください」
と、蓮如上人に伏して願い出た。
蓮如上人も、その構想を練っておられたところなので、
ただちに筆をとられ、五郎左衛門に書き与えられたのが
「白骨の章」であったのです。
その後、蓮如上人のお弟子たちも、この御文を拝読して感涙にむせんだといいます。
その外、武家や公家にも広く伝わり、明日はなき無常の世を知らされ、
山科本願寺へ聞法に訪れる人が多く現れました。
以上の経緯が『御文来意鈔』に記されています。
◆「白骨の章」の御心◆
では、有名な「白骨の章」の全文と、現代語訳を記しましょう。
【原文】
夫れ、人間の浮生(ふしょう)なる相(すがた)をつらつら観ずるに、
凡(おおよ)そはかなきものは、この世の始中終(しっちゅうじゅう)、
幻の如くなる一期(いちご)なり。
されば未だ万歳(まんざい)の人身を受けたりという事を聞かず。
一生過ぎ易し。
今に至りて、誰か百年の形体(ぎょうたい)を保つべきや。
我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、
おくれ先だつ人は、本の雫(しずく)・末の露よりも繁しといえり。
されば、朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて、
夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり。
既に無常の風来りぬれば、即ち二つの眼たちまちに閉じ、
一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて
桃李(とうり)の装(よそおい)を失いぬるときは、
六親・眷族(けんぞく)集りて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。
さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、
ただ白骨のみぞ残れり。
あわれというも中々おろかなり。
されば、人間のはかなき事は老少不定(ろうしょうふじょう)のさかいなれば、
誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、
阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。
(五帖目十六通)
【現代語訳】
浮草のように不安な人生を、よくよく眺めてみれば、
人の一生ほど、儚いものはない。
生まれて、大きくなり、やがて老いて死ぬ。
まさに幻のごとく過ぎ去ってゆく。
どんなに長生きしても、一万年も生きた人は、聞いたことがない。
平均寿命80年と聞けば、長いようであるが、
過ぎてしまえばアッという間の出来事である。
実際に、100歳まで生きる人は稀なのだ。
死ぬのは他人で自分はまだまだ後だ、と思っているが、
とんでもない間違いである。
「死の縁無量なり……病におかされて死する者もあり、
剣にあたりて死する者もあり、水に溺れて死する者もあり、
火に焼けて死する者あり……」 (覚如上人)
今日とも明日とも知れぬのが私たちの命である。
雨の日、木の枝から滴り落ちる雫のように、
毎日、多くの人が後生へ旅立っているではないか。
朝、元気に出かけた者が、交通事故などで、
変わり果てて帰宅することも珍しいことではない。
一度、無常の風に誘われれば、どんな人も二度と眼を開かなくなる。
一息切れたら、顔面は血の気を失い、桃李の肌色はなくなってしまう。
肉親や親戚が集まって、どんなに泣き、悲しんでも、二度と生き返ってはこない。
泣いてばかりもおれないから、火葬場に送って荼毘に付せば、
ひとつまみの白骨が残るのみである。
我が身を忘れ、死者を哀れんでいる者も、やがて同じ運命をたどるのだ。
老いも若きも関係なく、いつ死ぬか分からぬのが、人間のはかなさである。
どうか、すべての人々よ、早く後生の一大事に驚きをたて、
阿弥陀仏に救われ、報謝の念仏を称える身になってもらいたい。
・・・・・・・・・・
“白骨の章”に書かれてある「後生の一大事」を、
死後、極楽に往けることだと解釈して、
念仏さえ称えたら死んだら誰でも極楽に往ける、という人があります。
蓮如上人の書かれた『御文章』には随所に、
「ただ声に出して念仏ばかりを称うる人は、おおようなり。
それは極楽には往生せず」
と書かれてありますから、
“念仏称えたら、死ねば誰でも極楽”は誤りだと
お分かりになると思います。
蓮如上人の白骨の章を書かれた御心をよく知り、
正しい意味を理解して頂きたいと願わずにおれません。
■┓徒然なる ●┓
┗● ひとり言┗■
ラジオで、中島みゆきの「糸」という曲が流れてきました。
2番の歌詞が心に残りました。
・・・・・・・・・・
なぜ生きてゆくのかを
迷った日の跡のささくれ
夢追いかけ走って
ころんだ日の跡のささくれ
こんな糸がなんになるの
心許なくてふるえてた風の中
縦の糸はあなた 横の糸は私
織りなす布はいつか誰かの
傷をかばうかもしれない
縦の糸はあなた 横の糸は私
逢うべき糸に出会えることを
人は仕合わせと呼びます
・・・・・・・・・・
なぜ生きてゆくのか……。
迷った日……。
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