【浄土真宗の歴史に学ぶ】
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戦乱で、吉崎御坊(福井)を退去せられた蓮如上人は、
新たな拠点を京都山科に定め、
悲願の仏法都市・山科本願寺を建立されます。
ここで親鸞学徒が安心して聞法できるようにと、
蓮如上人が精魂を傾けて造られた聞法ドメインです。
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◆聞法ドメインとは?
ドメインとは、拠点・領域をあらわします。
親鸞聖人の教えを聞き、学び、語り合って、
ともに人生の目的
(人界受生の本懐)を果たすための場所が、
聞法ドメインです。
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文明12年(1480)、各地の門徒の熱い懇志で、
山科に御影堂が落成する。
「誠によろこびは身上にあまれりて、祝着千万なり。
(中略)
その夜の暁き方までは、ついに目もあわざりき」
(帖外御文)
蓮如上人はお喜びから、一睡もできなかったと記されている。
阿弥陀堂と合わせ、これら主要施設(御本寺)を核に、
内寺内という僧侶たちの住坊、
さらにその周辺に外寺内と称する町衆の居住区ができ、
諸国の参詣者や、職人たちが住まいした。
本寺・内寺内・外寺内の三郭は、
それぞれ高さ7メートルほどの土居(土を盛り上げた堤)と堀で区画され、
環壕城塞都市と呼ばれる大きな寺内町を形成する。
面積は約24万坪で、大谷本願寺(最初の本願寺)の300坪と比べ、
800倍の広さがあった。
戦乱の世に、安全確保は急務であり、
城郭並みの防衛機能が欠かせなかった。
大名が驚くほどの堅牢な城塞だったのは、
幾たびも戦火をくぐり抜けられた経験と、
如来聖人からお預かりしたご門徒を、何としても守る、
蓮如上人の強いご信念からであろう。
中は平和が保たれ、都と比べ、勝るとも劣らぬ繁栄だったと伝えられる。
ある貴族は、
「もっとも寺中広大無辺、荘厳ただ仏国のごとし、
在家また洛中と異ならず、居住の者おのおの富貴にして、
家々のたしなみずい分美麗なり」(二水記)
と評している。
富み栄えているだけなら、珍しくはないが、
山科寺内町は、規律に基づいた信仰の生活が営まれていた。
『本願寺作法之次第』を見ると、
山科寺内町には時の太鼓が2カ所に置かれ、
朝7時、昼、日没8時の一日3回、鳴らされた。
その音で、寺内町の朝は明け、昼そして日没が告げられ、
生活時間が定められた。
風呂などの施設も置かれ、毎月定期的に沸かしていたという。
音楽や生臭物を停止すべき日など、細かい規定もあり、
門徒で係りを分担して規則を遵守し、
仏法者らしい日々を過ごしていたのである。
山科を訪れたキリスト教の宣教師ですら、
「夜に入りて坊主彼らにむかいて説教をなせば
庶民多く涙を流す、
朝にいたり鐘をならして合図をなし、
皆堂にはいる」
と、当時の親鸞学徒
の、秩序ある生活に感動している。
遠くから参詣した同行たちを、上人は殊のほか大切にされ、
食事面でもいろいろと気を配られた。
蓮如上人の五男・実如上人は、
「蓮如上人の御時、申し付けた雑煮をふと取り寄せて、
まずご自分で味を見たところ、ひどく塩辛く、味も悪くこしらえてあった。
蓮如上人はだれがこの雑煮を作ったのかと問い、
料理人を注意し、遠国からはるばる上洛してきた
親鸞聖人のご門徒に、このようにまずい料理を出すとは
けしからぬことだと叱られた」
と語っています。
(つづく)
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