さて、お金についての話題。今回は2回目です。
1回目の記事は、こちら
です。
「お金」を必要とするのは、どうしてでしょう?
あまり難しいことを考えず、単純に答えれば、
「生きていくために必要だから」
です。
日本では、お金がないと生きていけません。
家に住み、
食べ物を確保し、
着るものを手に入れるのにも、
すべてお金が必要です。
そのお金を得るために仕事に就きます。
そして一生懸命、働きます。
働くのは、お金を得るためであり、
お金を得るのは、生きていくためです。
さて、ちょっといつもと違った角度から
「お金」と「幸せ」について考えてみましょう。
お金は、日本銀行から発行される全国共通の優れた金券です。
デパートの商品券は、特定のデパートでしか使えません。
スーパーでもらうポイントも金券として使えますが、そのスーパーに限られます。
図書券は、書店でしか使えません。
文具券は、文房具屋さんでしか使えません。
でも、日本銀行券の場合は、全国どこでも使える金券です。
高島屋デパートの商品券を100万円分持っている。
Tポイントを100万ポイント持っている。
図書券を100万円分持っている。
文具券を100万円分持っている。
日本銀行券を100万円分持っている。
何が違うか?
要するに、その券の効力範囲の違い、という感じがしますね。
(もちろん、信用度も違いますけど)
高島屋デパートか、Tポイント加盟店か、本屋か、文具屋か、
それともどこでも使えるか、の違い。
そういうことから言うと、やっぱり日本銀行券が一番、優れているんでしょう。
こんな経験ないですか?
図書券を1万円分もらって、
「ちっくしょー!何で図書券なんだ!
1万円札がいいよー!!」
(顔はニコニコでも、心は叫ぶんですよね……)
やはり、日本銀行券はすごい!!
でも、ポイントでも、お金でも、
それを持っているだけでは、何の意味もありませんよね。
「俺は、Tポイントを、10万ポイントためたんだぞ!」
「へぇ、それはすごいね。で、何に使うの?」
「ばか!そんな、使ったらもったいない!もっとためるのさ!」
こんな人、時々いますけど、何かのゲームの得点と勘違いしているのでしょう。
お金でも、同じような人がいます。
とにかく、お金が欲しい、という人。
“お金がある”ことに価値を見出す人があります。
こんな考えさせられる事件がありました。
昨年の3月、大阪で、自宅に59億円もの現金を隠し持っていた姉妹が
逮捕されました。
父親からの遺産総額が75億円。
脱税額は過去最高の28億円といわれます。
脱税姉妹なんて、言われてました。
ダンボール50箱に入れた現金を、
自宅の車庫にため込んでいたんです。
50箱ってスゴイ!!
なんと言っても59億円ですから!!
だけど、ダンボール50箱に詰められた札束は、
使われることもなく無造作に積み上げられて、
カビが生えていたものまで見つかった、と言います。
姉妹は着物に少し金をかけるくらいで、
あとは一般の人と何ら変わらぬ質素な生活を送っていたというのです。
まぁ、大金を持っていないように見せかけるためだったのかもしれませんが、
それにしたって、いつ、その大金を使う予定だったのか??
死ぬまで車庫に入れておくだけ?
稼いだお金を、税金でとられるのは誰だって嫌ですから、
気持ちはわからないでもないけど……。
“お金があれば幸せ”なら、
この脱税姉妹さんは、最高に幸せだったと言えます。
59億円もの現金を、自宅の車庫に保管していたのですから。
まぁ、逮捕されるまでのことでしたが。
「逮捕されたのは残念だったろうけど、
逮捕されなければ、さぞかし幸せだったろうなぁ……」
と思う人は、果たしてあるのでしょうか??
お金は「ある」ことが「幸せ」と思うでしょうか?
もし、「いや、お金は、あれば幸せなんだ」と言い張る人があるとすれば、
「お金」は「手段」であることを知らない人でしょう。
それについては、次回。
■┓徒然なる ●┓
┗● ひとり言┗■
今日は、浄土真宗のことについて、Q&Aで深く学んでみましょう。
【問】
浄土真宗の法話に、
よく聞即信(もんそくしん)という言葉が使用されますが、
どんなことでしょうか。
【答】
聞即信という言葉は、阿弥陀仏が私たちを絶対の幸福に
救済してくだされる時のことを表す、浄土真宗にとっては極めて大切な言葉です。
阿弥陀仏のお誓いは
聞其名号(もんごみょうごう)
信心歓喜(しんじんかんぎ)
とありますように、聞いて信ずる者を助けるというお約束ですから、
聞くということが、阿弥陀仏に救われるに最も大切なことなのです。
ゆえに、親鸞聖人も蓮如上人も
「仏法は聴聞(ちょうもん)に極まる」
とまで道破なされています。
すでに聴聞といわれていますように、聴もきく、聞もきくということですが、
仏法では聴というきき方と、聞というきき方とを厳然と区別されていることを、
よく承知していなければなりません。
まず、聴というきき方は、
ただ耳からきいて頭で合点しているようなきき方をいいます。
2+2は4、4+4は8、というように、きいて納得している状態をいいます。
庄松同行(しょうまどうぎょう)が
「合点(がってん)ゆかずば合点ゆくまでききなされ、
きけば合点のゆく教え、
合点したのは信ではないぞ、それは知ったの覚えたの」
と言っていますが、このようなきき方を聴といいます。
このようなきき方は幾らでもできますが、
このようなきき方を幾ら重ねていても阿弥陀仏の救いにはあわれません。
「聴聞ということは、なにと意得られて候やらん。
ただ耳にききたるばかりは、聴聞にてはなく候。
そのゆえは、千万の事を耳にきき候とも、
信得候わぬはきかぬにてあるべく候。
信をえ候わずは、報土往生はかなうまじく候なり」
と、蓮如上人仰せになっているのはこのことなのです。
耳に幾ら千回万回の法話をきいても、
それでは聴のきき方ですから助からないのです。
では、聞というのはどんなきき方かと申しますと、
心のドン底へ阿弥陀仏のジカの呼び声が響きわたるきき方をいいます。
聴はうわべの心が善知識(ぜんちしき)のご教化(きょうけ)をきいて
合点してありがたがっているきき方ですが、
聞は下の心のドン底に、阿弥陀仏の呼び声がきこえた時のきき方をいうのです。
だから聴は何十回何百回でもありますが、
聞というきき方は一生にたった一度キリしかありません。
親鸞聖人はこれを、
「廻心ということ一期に、ただ一度あるべし」(歎異抄)
とおっしゃっています。
その一度も、ある人で一度であって、ない人がほとんどです。
この阿弥陀仏の御声が心のドン底へ、ジカに聞こえた一念で
大安心大満足の境地におどり出させていただきますから、
この時を聞即信というのです。
即という字は、時を隔てず、所をも隔てずということですから、
阿弥陀仏の呼び声が聞こえた、その時、その所で
信心歓喜(しんじんかんぎ)と大安心し、
絶対の幸福にさせていただけるということが聞即信といわれるのです。
庄松同行はこれを
「合点せよとは口では言えど、不思議不思議の外はない」
と言っています。
六連島(むつれじま)のおかる同行は
「たった一声聞いたのが、その一声が千人力、
四の五の言うたは昔のことよ、
そのまま来いの勅命に、いかなるおかるも頭が下がる」
と、おどり上がって喜んでいます。
この驚天動地の一念の体験を聞即信というのですから、
この阿弥陀仏の御声をジカに聞くまで、聞き抜きましょう。
(『こんなことが知りたい2』高森顕徹先生
著)
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