「生きる意味」について、今回は、「感じる」方向から考えてみましょう。
私が理屈っぽい人なので、「生きる意味」についていろいろ言うと、
「そんな理屈であれこれ言ってもダメ。
生きる意味って、そんなことでわかるものじゃないんじゃない?
ほら、命の輝きを感じるとき、あぁ、生きてる、って思うでしょ?
それだけで意味が感じられるじゃない」(口語調で読んで下さい)
言われること、よくわかります。
“生命の神秘”にふれたとき、
命の輝きを感じたとき、「生きてる」ことを実感し、
喜びを感じることがあります。
こうやって呼吸をしている、ということは、当たり前ではありません。
心臓が絶え間なく動いています。
食べた物を消化して養分とし、体のすみずみまで血液で運搬します。
精子と卵子の結合から、私たちは約60兆個の細胞となり、
それらが複雑に関係しあって、この肉体の命を保っているのです。
肉体を構成している材料を集めてくることは、それほど難しくないでしょう。
でも、それらを、どれだけかき混ぜても、生命は生み出されません。
死んでしまえば、途端に私たちの肉体は腐り始めます。
生きているから、生身の肉体が腐らないのです。
しかも、いろいろなおかげによって、生かされている命でもあるのです。
この太陽と地球の絶妙な距離の関係が、
生命が存在できる環境を生み出しています。
親がいなければ生まれて来れなかった。
服だって、食べ物だって、それを提供してくれる人がなければ、
手にすることはできません。
こうして当たり前のように生きていることが、当たり前ではなく、
いろいろのお蔭によって生かされていることだと気づいたとき、
生命あることに感謝できるのだ、と。
そして、このことに気づかせることが「命の大切さ」を伝えることだ、
と言う人もあります。
確かに、生命の不思議にふれて、当たり前のことが
当たり前でないことを知るのは、大変大切なことです。
それは、現代の教育に欠けている点でもあるので、
大いに伝えなければならないことでしょう。
しかし、そのことで「命が大切だ」「生きる意味がある」と言おうとしても、
どうしても無理があります。
「不思議なこと、すごいこと、おかげ」=「大切、意味がある」
とはならないからです。
生命を保つ仕組みは、何も人間だけのことではありません。
牛や豚、鳥や魚、昆虫に至るまで、
それぞれが“生命の神秘”であり、生きています。
でも、人間は、それらの生命を平気で奪って、自らの食料としています。
人間に食べられることを喜びとする動物は、一匹もいません。
鶏が首を絞められてバタバタするのも、船の上で魚がピチピチ跳ねるのも、
死にたくないからです。
「活きがいいなぁ」
「おいしそうだなぁ」
と思って口にしている生物たちも、
みんな感動するような“生命の神秘”に生かされています。
“生命の神秘”が知らされるほど、かえってそれらの命を奪って
生きる自らの矛盾した行為に悩まないでしょうか?
悩みが生じないのは、それほどに他の生命を奪うことが
当たり前になっているからなのかもしれません。
また、今が苦しい人にとっては、生かされていること自体が、
悩みであり、苦しみです。
「なぜ自分は生まれたの?」
「なぜ生かされるの?」
「苦しい人生、なぜ生きねばならないの?」
「こんなにつらいのなら、生まれてこなければ良かった」
それに対して、
「生命の神秘だよ」
「生きるってことは、当たり前じゃないんだよ」
「世の中には、生きたくても生きられない人が、たくさんいるんだから」
と言っても、本人の疑問には、まったく答えたことになっていません。
生命の不思議に合掌し、周囲のおかげに感謝し、喜べるのは、
「人間に生まれて良かった!」
「苦しかったけど、あの時、自殺しなくて良かった!生きてきてよかった!」
「この幸せになるための人生だったのか!」
と人生の目的を果たさせていただき、
人間に生まれたことを心から喜ぶことが出来てのことでしょう。
前回も例えましたが、
「あなたが、今、こうやって走ることが出来るのは、
実は大変なおかげによってなんだよ。
その靴も、ユニフォームも、みんな提供した人があってのこと。
今、走っている道だって、どれだけの人の苦労があって
舗装されたかわからないよ。
そして、走り方だって、実は教えてあげて人があって、
そうやって走ることができるんだから」
そのように言われても、何のために走るのかわからず、
つらい人にとっては、救いにはならないでしょう。
「今、つらいかもしれない。
だけど、あそこがゴールだ!あそこまでがんばって走ろう!」
と、ゴールがハッキリしてこそ、がんばって走ることが出来ます。
生きることにも同じことが言えます。
生きる目的がハッキリしてこそ、生かされていることに心から感謝し、
お蔭さまと手を合わせることが出来るでしょう。
仏法を聞き求め、人生の目的を達成させていただいた時、
生命の大歓喜がわき上がるのだと教えられています。
親鸞聖人は、その感動を次のように叫び上げられています。
「噫(ああ)、
弘誓(ぐぜい)の強縁(ごうえん)は
多生にも値(もうあ)いがたく、
真実の浄信(じょうしん)は億劫(おっこう)にも獲がたし。
遇(たまたま)行信(しょうしん)を獲ば
遠く宿縁(しゅくえん)を慶べ。
若(も)しまたこの廻(たび)
疑網(ぎもう)に覆蔽(ふくへい)せられなば
更(かえ)りてまた昿劫(こうごう)を逞歴(きょうりゃく)せん。
誠(まこと)なるかなや、
摂取不捨(せっしゅふしゃ)の真言(しんごん)、
超世希有(ちょうせけう)の正法(しょうぼう)、
聞思(もんし)して遅慮(ちりょ)することなかれ」
(教行信証:きょうぎょうしんしょう)
“ああ……、何という不思議、親鸞は今、
多生(たしょう)億劫(おっこう)の永い間、
求め続けてきた歓喜の生命を得ることができた。
これは全く、阿弥陀仏の強いお力によってであった。
深く感謝せずにおれない。
もし今生も、無明の闇(むみょうのやみ:苦悩の根元のこと)の
晴れぬままで終わっていたら、未来永遠、浮かぶことはなかったであろう。
何とか早くこの真実、みんなに伝えたい。
知らせねばならぬ。こんな広大無辺な世界のあることを”
「ああ!」というのは、かって体験したことのない
驚きと喜びの、言葉にならぬ感嘆です。
「弘誓(ぐぜい)の強縁(ごうえん)」とは、
“何としても苦しみの根元を断ち切り、人生の目的を果たさせたい”
という阿弥陀仏の誓願をいい、
その誓いどおりに、苦しみの根元が断ち切られて、
人生の目的成就した歓喜の生命を、
「真実の浄信(じょうしん)」と言われています。
それはもう、100年や200年求めて得られる、
ちっぽけな幸せではなかった、と知らされるから、
「多生にもあえないことにあえた、億劫にも獲がたいことをえた」
と言われているのです。
一生や二生どころではない、限りない生死を繰り返し、
億劫という果てしのない遠い過去から、
求め続けてきたものが今、獲られた。
「ああ!」と驚嘆されたのも当然でしょう。
そして、しみじみ、どんな遠い過去からの阿弥陀仏のご配慮があったのやらと、
「遇(たまたま)行信(ぎょうしん)を獲ば遠く宿縁(しゅくえん)を慶べ」
と感泣せずにおれなかったのです。
「若しまたこの廻(たび)疑網(ぎもう)に覆蔽(ふくへい)せられなば
更りてまた昿劫(こうごう)を逕歴(きょうりゃく)せん」
「疑網(ぎもう)」とは、苦悩の根元である無明の闇(むみょうのやみ)のことです。
“もしまた、無明の闇の晴れぬまま人生を終わっていたら、
未来永劫(ようごう)、苦しみ続けていたに違いない。
危ないところであったなあ”
とおっしゃっています。
この世だけではない。
遠い過去から未来永遠にわたって、私たちを苦しめる元凶が、無明の闇。
その無明の闇を破っていただけば、人生の醍醐味(だいごみ)を
心行くまで味わうことができるのだから、絶対に自殺してはいけない。
この目的を果たすまで、生き抜きなさいよ、と言われているのです。
「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ」
“まことだった!本当だった。
弥陀(みだ)の誓いにウソはなかった。
皆さん、聞いてもらいたい、この親鸞が生き証人です。
早く、弥陀の誓願まことを知ってもらいたい”
阿弥陀仏のお力によって、人生の目的を果たさせていただいた、
美しい感激に満ちた表明です。
「人生には意味があるのか」
「苦しくとも生きる価値があるのか」
大人も子供も、生きる喜びを感じられず、現代は混迷の度を深めています。
そんな中、“何と生きることは素晴らしいことなのか”。
800年の時を超え、親鸞聖人の声が聞こえてきます。
こんな生命の尊厳さを知れば、なぜ自殺してはならないのか、
なぜ人命は地球よりも重いのか、人間存在の疑団が氷解し、
感謝と懺悔に生かされた、明るくたくましい人生が開かれるのです。
そして、人生の諸問題の解決にも、力強く前進できるようになるでしょう。
■┓徒然なる ●┓
┗● ひとり言┗■
昨日は、富山県射水市の親鸞会館で、
アニメ「親鸞聖人と王舎城の悲劇」の解説でした。
王舎城の悲劇とは、2600年前、お釈迦さまのおられた当時、
インドで実際に起きた仏教史上最大の悲劇です。
詳しくは、こちらをご覧下さい。
http://www.shinrankai.or.jp/b/bukkyo/ousyajyou.htm
(浄土真宗親鸞会公式ホームページより)
今、世界陸上がドイツで行なわれていますが、出ましたね。
9秒58の世界新記録!!
私も、高校時代は、陸上部に所属していましたから、
見ると興奮します(種目は、400mハードルでした)。
でも今、全速力で突っ走ったら、きっと足がもげます。
そう、高校時代は、今から約18年前。
当時、トレーニングして身につけた筋力、体力は、
すでに遠い過去のものとなってます。
でも、ついこの前のことのように思えるんですよね……。
あぶない、あぶない。
なるべく歩いて、体力増強に努めないとね。
※トップの画像は、富山県の五箇山の合掌造り。世界遺産に登録されています。
これは、秋の風景です。
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