「生きる意味」について、また別の角度から見てみましょう。


大学時代、工学部に属していた私は、


建築を専門とする助教授と、


人生について議論になったことがありました。

その助教授は、学生時代に哲学書を何百冊と読み漁り、


人生について考えたそうです。

幸せとは何かについて、いろいろ議論した挙句、


その先生が結論として言ってきたことは、


「幸せかどうかは、


 死ぬときになってみないとわからない」


というものでした。


その先生は建築が専門でしたから、


死ぬときに、今まで手がけてきた設計図の山を前に、



「オレは、これだけのことをやってきた」



と言って、満足できるかどうかだ、と。


そのために、今は一生懸命、自分の仕事に取り組んでいる、というものでした。


たしかに、満足できれば、


それで「生きた意味」を感じることができるでしょう。

果たして、どうなのか??



今回は、この


「死ぬときになってみないとわからない」


について考えたいと思います。


「どう考えるかは、人それぞれじゃないの?」


 という意見については、既に取り上げましたので、


 それについては過去の記事を見てほしいと思います。

http://ameblo.jp/go-go-pyonta/theme2-10011315459.html


「死ぬときになってみないとわからない」は、


いくら助教授から言われたとはいえ、


当時の私(21歳)にもかなりの疑問を抱いた解答でした。


「人生の意味なんて、


 結局、


 死ぬときになってみないとわかんないんじゃないの?」

という意見は、実は、非常に多いんです。


しかも、圧倒的に男性に多い意見、という印象を受けます。


この発想は、どこから来るのだろう?とも考えてみました。


何か物事をやろうとして、躊躇している人に、

「そんな、あれこれ考えないで、


 とにかくやってみたらわかるよ」

とアドバイスするかのような感じです。


つまり、


「やらずに何がわかる。


 やってみなきゃ、そのものの楽しさや意義なんて


 わかんないだろう?」


というような考えです。


これは確かにそうです。


何かをやるときには、


「やってみなきゃわからない」


という要素は大いにあります。



私なんぞは、


そのようによくアドバイスされる側の人間ですから、


見習わねばならない考えだと思っています。


「これって本当においしいの?


 どんな味?ねぇ、教えてよ」

食べて後悔したくない、という思いで聞くんですけど、たいてい、



「食べる前にあれこれ言わずに、


 おいしいから、ほら、食べてごらん」

と無理やり食べさせられ、やっぱり


「……。○×▽◎!!


 これ……、おいしくない……(ToT)」

という経験が何度かありました。


(もちろん、美味しかったパターンもありましたよ)

すみません……、嫌いな食べ物が多いんです……。orz


食べてみないと、おいしいか、マズイか、わかりませんものね。

あれこれ言ったって、言葉は、その味そのものじゃないですから。

多くのことを経験し、学んでいく上では、大切なことです。


ただ、それを「人生の意味」として求めるものに


適用してしまってよいか?ということ。

どうしてか?


結果が、「死ぬときになってみないとわからない」からです。


食べ物とか、趣味とか、生きがいなら、やってみて、

「これは、自分に合わないな」

「これっていいかも!」

など、感触を確かめることが出来ます。


だけど、一切の結論を「死ぬとき」に持ってきてしまうと、


臨終までわからないことになります。


日本の歴史上、成功者と言われる豊臣秀吉

彼は、百姓から太閤にまで出世、


天下統一を果たし、大坂城や聚楽第を築いて


栄耀栄華を極めました。

そんな男が、臨終には、


「露と落ち、露と消えにし、わが身かな、

 難波のことも、夢のまた夢」


と寂しくこの世を去っています。

あれだけ能力の優れた、頭のいい男が、


思う存分才能を発揮した人生を送ったのに、


「儚い一生だった……」


と寂しく死んでいるのを知っただけでも、


「オレって大丈夫?」


と思いませんか?


「オレは大丈夫」と言える人は、


よほど秀吉より人生を達観した優れた人間と言えるでしょう。



「若きウェルテルの悩み」などの作品で知られるゲーテは、


無類の楽天家でもありました。

晩年、こんなことを自分の助手に語っています。


「私はこう勧めたい。

 何も無理じいをせぬことだ。

 何もできない日や時には、


 後になって楽しめないようなものを作ろうとするより、


 ぶらぶらして過ごしたり、寝て過ごす方がいい、と」


また、「処世のおきて」と題し、こんな言葉も残しています。


「気持よい生活を作ろうと思ったら、


 済んだことをくよくよせぬこと、


 滅多なことに腹を立てぬこと」


そして、74歳のゲーテは、


19歳の少女・ウルリーケへ本気で求婚している


(もちろん、あきらめざるをえなかったが)。


そんなゲーテも、75歳のときに、こう漏らしています。


「結局、私の生活は苦痛と重荷にすぎなかったし、


 75年の全生涯において、


 真に幸福であったのは


 4週間とはなかった、とさえ断言できる。

 私の生涯は、たえず転がり落ちるので、


 永遠にもち上げてやらねばならぬ


 岩のようなものでしかなかった」


ゲーテは、ただの楽天おじさんとは違います。

玄人並みの絵を描き、色彩論を展開しています。

鉱物を採集して、地形の変遷や地質の変動を研究。

論文『植物変態論』や『動物変態論』は、


進化論のさきがけをなしたとも考えられていて、


解剖学に寄与する骨の発見までしています。

ワイマル公国では大臣となり、


財政、文教、産業など多岐にわたって国政にも参与した人なんです。


そんなゲーテ以上に、多彩に才能を発揮し、


また楽天的に生きられる自信はありません。



ここまで書くと、何かやる気を失わせてしまうような印象を


与えかねないので、フォローしておきますが、


決してがんばることを否定しているわけではありません。

いや、生きる意味、人生の向かうべき方角がハッキリすれば、


健康も仕事も健康管理も


「このためだ!」


とすべての行為が意味を持って、心から充実した人生になります。

病気がつらくても、人間関係に落ち込んでも、競争に敗れても、

「大目的を果たすため、乗り越えなければ!」

“生きる力”が湧いてくるのです。



意味があるのかないのか、わからないまま、


どうして一生懸命になれるでしょう?

どうして「よし!やるぞ!」のファイトがわいてくるでしょう?


走る人にとって、ゴールがハッキリしていてこそ、


がんばって走ることが出来るのではないでしょうか?


「とにかく一生懸命走るだけだ。

 走る意味?

 そんなの、走り倒れるときになってみないと


 わかんないよ」


こんなことでは、足に力が入るはずがありません。


「とにかく一生懸命生きるだけだ。

 生きる意味?

 そんなの、死ぬときになってみないと


 わかんないよ」


走る例と同じことです。



「死ぬときになってみないとわからない」

について、もっと重要な問題があります。


「いつ死ぬのか?」

ということです。


自ら命を絶とうとする人に、

「おい!


 死んだらダメだ!


 死ぬときになってみないと、


 人生、わからないじゃないか!」

と言っても、


「死ぬとき?


 それが今なんだ。人生、何もないよ」

こう言われたら終わりです。


これは、私たち自身にも言えることでしょう。

なぜなら、死は、今日かも、明日かも知れないからです。


「今、死が来ても大丈夫ですか?」


人生の目的を達成し、

「いつ死んでも悔いなし」

と言える身になっていなければならないでしょう。



長寿社会は進んでいるが、


老いたらおいしいものを食べようと一生懸命働いてきたのに、


糖尿病で食べられない。

素敵な洋服で旅行しようと買い込んでいたのに、


半身不随で動けない。

たまたま入院すればやって来る子供たちは、


貯金通帳や印鑑のありかばかりを詮索し


金ばかりをねらっている、こんな人生なんなのか、と涙を流して死んでいる。


「呼吸のあいだ、すなわちこれ来生(らいしょう)なり。

 一たび人身を失いぬれば、万劫(まんごう)にもかえらず。

 この時さとらざれば、仏、衆生(しゅじょう)をいかがしたまわん。

 願わくは深く無常を念じて、いたずらに後悔をのこすことなかれ」

           (『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』)


「一息つがざれば次の生である。

 永久にもどらぬ人生となる。

 ただ今、人生の目的を達成しなければ、


 いつするというのであろうか。

 いつできるというのだろうか。

 永遠のチャンスは今しかない。

 刻々と迫る無常を凝視して、決して後悔をのこさぬように」


生きる意味は、生きている現在ただ今、


人生の目的を達成したときハッキリするもの。

死ぬまで待つものではありません。


死ぬまで待たないとわからない幸せは、


死ぬまで幸せになれない、ということです。


親鸞聖人の教えを、ひと言で表わした言葉が


「平生業成(へいぜいごうじょう)」


です。


「平生」とは、死んだ後ではない、生きている現在、ということです。

次の「業」は「ごう」と読み、「人生の大事業」をいわれています。

大事業と聞くと、大会社を築いたり、宇宙ステーションを建設したり、


あるいは野球のイチロー選手のように、安打数の記録を塗りかえること、


などを思い浮かべるかもしれません。

確かにそれらも大変な事業に違いありませんが、


ここで言われているのは、「人生の大事業」ということで、


言い換えれば「人生の目的」のことです。

その人生の目的が、


生きている今完成する、


達成できることを「成」の字で表されています。

これが、親鸞聖人90年の教えを表わす一枚看板なのです。



■┓徒然なる ●┓
┗● ひとり言┗■


信州の方から、プリンのおみやげを頂いたので、ご紹介。


ひまわり日記・親鸞会の講師の一人はこんな人-信州プリン2.jpg


「春夏秋冬」というお店です。

※ホームページはこちら
http://www.purin-shop.com/index.htm

まろやかでテイストグッド!!


また、地元富山の方から、富山の有名どころ「リブラン」のお菓子を頂きました。

※ホームページはこちら
http://www.lisblanc.com/index.html

いろんな種類があったよ!!

パクッと食べて、写真を撮り忘れたことにリアライズ!

ガーン!!

orz はやまった……。



富山の見所の一つ、越中八尾おわら風の盆

富山県富山市八尾町(旧婦負郡八尾町)で


毎年9月1日から3日にかけて行なわれている祭りです。

本祭前の8月20~30日は、前夜祭が行なわれるということです。

ひまわり日記・親鸞会の講師の一人はこんな人-風の盆
(画像は、知人が撮影したものです)


直接、見てみたいですねぇ。

富山にいるんだし……。

(*^-^)




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