前回の続きです。

読経(どきょう:お経を読むこと)や


墓参りにはどういう意味があるのでしょうか?


ひまわり日記・親鸞会の講師の一人はこんな人-阿弥陀経表紙

それを知るにはまず、


お経がどうして成立したのか


ということを知らなければなりません。

お経は、お釈迦さまが、


苦しみ悩んでいる生きた人間を幸福にするために説かれた説法を、


弟子たちが後世の人たちのために書き残したものです。

死んだ人に説法されたものは一つもありません。


ひまわり日記・親鸞会の講師の一人はこんな人-阿弥陀経

また、生きているときでさえ聞き得ないものが、


死んで聞けるはずがありません。



ひまわり日記・親鸞会の講師の一人はこんな人-正信偈.jpg

親鸞聖人の書かれた


『正信偈』(きみょーむりょーじゅーにょーらいで始まる、あの有名な正信偈です)、



ひまわり日記・親鸞会の講師の一人はこんな人-御文章


蓮如上人の『御文章』は、いずれも生きた人間に説かれたものであって、


死人になされた説法でないことは、火を見るより明らかなことです。


あくまでも、
現在迷える人々を真実の幸福に導くための指針として、


書き残されたものであることを忘れてはなりません。



では、葬式や法事や読経などはまったく無意味なことなのかというと、


それは勤める人の心がけ次第です。


厳粛な葬式を縁として我が身を反省して罪悪観を深め、


無常を感じて聞法心を強めれば、極めて有難い勝縁となります。


法事もチンプンカンプンの読経のみで終わっては所詮がありません。

読経の後で、


そのお経に説かれている真実の教えを聞かせていただいて、


ますます信心決定(しんじんけつじょう:人生の目的を達成すること)


せねばならぬことを知らされてこそ、意味があるのです。



最後に、浄土真宗の墓参りの意義を述べておきましょう。


良作さん夫婦が、親鸞聖人に尋ねています。


ハル「で、親鸞さま。

   葬式や法事には、親戚や近所の者がみな集まってくるんですが、


   何もお金を使ってする必要はないんですね」


聖人「だがなハルさん、多くの人が集まるよい機会だから、


   亡くなった人を偲んで、みんなで仏法を聞くご縁にしなければ、


   もったいない。それが亡くなった人の最も喜ぶことなんだからね」


ハル「みんなで仏法聞くことが、そんなに善いことなんですか」


聖人「そうだよ。

   仏法にはどんな人も本当の幸せになる、


   たった一つの道が教えられているのだからね。

   亡くなった人をご縁として無常を見つめ、


   真剣に後生の一大事を心にかけて、


   一心に阿弥陀如来の本願を聞けば、


   みんなが最高の幸せに救い摂られるのだからね。

   これほど尊いことはないのだよ」


ハル「なるほど、よいこと聞かせていただきました」


良作「葬式にはぜひ親鸞さま、ご説法をお願いいたします」


心構えさえ正しければ、


葬式や法事、墓参りは決して無駄ではなく、


本当の幸福になる勝縁になりましょう。






毎年毎年、相変わらず全国でたくさんの交通事故が起きています。

ところが私たちは、死者何千人と発表されても、少しも驚く心がありません。

何千人と亡くなったその陰で、


親は愛児を、子は親を、妻は夫を、夫は妻を失い悲惨のどん底に陥っています。

人身事故を起こして、人生を棒に振った運転手もいるでしょう。


にもかかわらず私たちは、ウツロなまなざしで数字を見ているだけで、


そこには人間性のかけらもなく、死に対して完全にマヒしています。


諸行無常の現実を真正面から見つめることなしに、


「仏法を聞こう」という心が起こるはずもありません。


朝から晩まで、忙しい忙しいで欲に追い回されて、


静かに自分の足もとを見る時間が現代人にはあまりに少ないと思われます。


私の先生である高森顕徹先生 の『白道(びゃくどう)燃ゆ』という著書から


引用したいと思います。



何が何だか分からんが、とにかく忙しい。

世間中が、テンテコ舞いしている。

街には自動車が正気を失ったように走り回っている。

横断歩道を横切るのにも命がけだ。

全身を神経にしていないと、たちまち交通戦争の餌食になる。


やっと家庭へ避難すると、テレビのコマーシャルが「今晩は……」とも言わないで、


ジャンジャン居間へ飛び込んで来る。

これでもかこれでもかと、忙しさをかきたてる。

とにかく現代は忙しくて、自分を静かに省みる余裕を与えてくれない。

現代人は四六時中、自分以外の何かに、よりかかっていなければ


生きてゆけない状態である。

ここに、人間の失格があり喪失がある。


自分自身を忘れ去り、刻々に生起する外界の事象に流され、


追いたてられて酔生夢死(すいせいむし)するのだ。

こんな生き方なら、仮に、80年生きたところで、


出生と同時に死んだのと、どこが異なるだろう。

ところが多くの人々は、これを「文化生活だ」と手放しに謳歌している。


我々は決して、現代文明の恩恵を否定する者ではない。

家庭の電化一つを、とりあげても確かに便利になった。


と言っても、電化生活は単なる生きる手段にすぎない。


私が生きる、という「私」が何者であるか、


ということが分からなければ、感謝するにも感謝のしようがない。


人生の目的を知らなければ、生きていても生きたとは言えないではないか。

忙しい忙しいと、かけずり回っている時、誰かに


「お前は、何の為に忙しがっているのか」


と尋ねられたら、何と答える準備がなされているだろうか。


(『白道燃ゆ』忙しい忙しいで、何処へ行く より)

全文はこちら から



ひまわり日記・親鸞会の講師の一人はこんな人-忙しいという字


世の中が忙しくなればなるほど、人生を振り返る時間が必要です。


以前は、家や会社を出れば、テレビや仕事から解放され、


自分の時間を静かに過ごすことが出来ました。

しかし今や、いつでもどこでも携帯電話のメールやらニュースやら呼び出しやらと、


息つく間もありません。


お盆を迎え、大自然の中に静かに息づく墓前にぬかずく時ぐらいは、


携帯電話のスイッチをオフにしてみましょう。



静寂な空気と、緩やかな時間の流れに身をゆだねたとき、


人生を見つめる得難い機会になることでしょう。


「オレも一度は死なねばならぬのか」

と、生死(しょうじ)の一大事に触れて厳粛な思いがするに違いありません。


ただ先祖の墓参りをするだけなら


先祖崇拝の習慣とか、道徳だけに終わってしまいます。

しかし、これを勝縁として墓前で合掌するままが


私の一大事に合掌することになれば有意義な墓参りとなりましょう。


親の恩に感謝し、そのご恩に報いようと思うならば、


一日も早く片時も急いで阿弥陀仏の本願に救われることです。

これ以上の先祖に対する供養も、親へのご恩返しもありません。



これまでお伝えしたことに一貫していることは、


あくまで、


葬式も法事も読経も、生きている私のための御縁


であるということです。

それを亡くなった方のための儀式と思っていては、


せっかく時間とお金と労力をかけて努められる仏事が台無しです。


亡くなった方の最も喜ぶことは、


生きている私たちが、真剣に仏法を聞かせていただき、


阿弥陀仏の本願に救い摂られること以外にないことを、


重ねて記しておきたいと思います。


さて、次回は、法名(ほうみょう)や戒名(かいみょう)について


取り上げてみたいと思います。


■┓徒然なる ●┓
┗● ひとり言┗■


浄土真宗では、冥福を祈ったり、追善供養や慰霊ということは一切しません。

一般の方からすれば、かなり意外に思われるかもしれません。

これは、親鸞聖人が勝手に教えられたことではなく、


仏教を説かれたお釈迦さまがそれらの行為を厳しく禁じておられるからなのです。


仏教の根幹は因果の道理。

善因善果、悪因悪果、自因自果と教えられます。

これについては、以前、詳しく解説しました。

※因果の道理についてはこちら をご覧下さい。



自分のやった行為が、自分の運命を生み出す、と教えるのが仏教です。

私のやった行為の結果が他の人に行く、ということや、


他人のやった行為の結果が自分に現れる、ということは絶対にありません。


酒を飲めば酔っ払うのは自分です。

餅をあわてて飲み込んでノドに詰まらせたら、


苦しむのは詰まらせた本人であって、


隣の人が苦しむということは万に一つもありません。



追善供養は、わかりやすく言えば、私のやった良い行いを、


亡くなった人に差し向けて、亡くなった人が善いところへ行くようにすることです。

しかし、因果の道理を学ばれた方なら、「おや?」と思われるでしょう。


私が良いことをやっても、やった行為の結果を受けるのはあくまで私自身、


と教えるのが仏教ですから、追善供養が仏教の教えと矛盾していることに


気が付くからです。


もし、私のやった行いの結果が他の人に行く、ということがありえるのなら、


私が友だちの代わりに勉強をして、その友だちの成績をあげることが


出来ることになります。

忙しく仕事をする会社の同僚のために、代わりに食事をとって、


その同僚のおなかを満たすことが果たして出来るでしょうか?


ひまわり日記・親鸞会の講師の一人はこんな人-代わりにトイレへ

この世でさえ出来ないことが、どうして、


他界した(他の世界へ行った)故人にしてあげることが出来るでしょうか。


亡くなった方を思いやる気持ち、また、生前何もしてあげられなかった


後悔と反省の念から、せめて供養だけは……、と思われる遺族の方の


気持ちもよくよく理解します。

そのようなお気持ちがあるならば、お釈迦様や親鸞聖人の教えにしたがい、


自身が一生懸命仏法を聞かせていただくことが一番です。


なぜならば、それが亡くなられた方の最も喜ぶことなのだよ、


とお釈迦様も、親鸞聖人も教えておられるからです。







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