私たちに引き起こる運命のすべては、
私たちのやった行為が原因であることを、
お釈迦さまは明らかにされました。
行為のことを、仏教では業といいます。
私たちのやった行為は、業力という目に見えない力となって残り、
決してなくなりません。
これを業力不滅といいます。
その不滅の業力はすべて、阿頼耶識に蓄えられるのだと仏教では教えられます。
阿頼耶識は、私たちの本心です。
アラヤとは昔のインドの言葉で蔵のこと。
識は心のことですから、阿頼耶識とは蔵のような心といえましょう。
この阿頼耶識に、私たちが日々造り続けている無量の業力が蓄えられるのです。
肉体の命は、およそ七、八十年ですが、この阿頼耶識は、
悠久の過去から永遠の未来へと流れていく不滅の生命です。
では、目に見えない業力が、目に見える運命を生み出すとは、
どういうことなのでしょう?
こんな歌があります。
「年毎に 咲くや吉野の 山桜
木を割りてみよ 花のありかは」
春になると、満開の桜でいっぱいになる奈良県の吉野山も、
冬には、枯れ木のような木々がツクンツクンと立っているばかり。
一体どこに花びらを隠しているのだろうと疑問に思って、
木を切り刻んでみても、桜の花びらは1枚も見つかりません。
木の中に蓄えられている、目に見えない勢力が、
春の陽気という縁と結びついた時、初めて、目に見える満開の花となって
その姿を現します。
この場合、枯れ木では、どれだけ春の陽気という縁がきても、
花は咲きません。因である勢力がその木にはないわけですから。
私たちの運命についても、業力は目には見えませんが、
縁が来れば確実に、善因には善果、悪因には悪果、
おのおのの結果を開くのです。
○私自身の運命を生み出す原因は、自分やった行為(業)である
○運命は、阿頼耶識に蓄えられている目に見えない業力が、
縁と結びついて引き起こる
・・・・・・・・・・
蒔かぬ種は生えぬ。蒔いた種は必ず生える。
これまでお伝えしたことを踏まえた上で、
次号で、最初にとりあげた夫婦の事例を考えてみましょう。
■┓徒然なる ●┓
┗● ひとり言┗■
特に不幸な場合に聞かれることですが、そんなに不幸なのは、
先祖のタタリですよ、とか、キツネがついてます、とか、
悪い霊がとりついているからだ、など言う人があります。
これらは、仏教から言えば、因果の道理に反する考え方なので、
仏教ではキッパリと否定します。
先祖から受け継がれる「業」というものはありません。
あくまで、自分自身の過去世の「業」が、肉体が滅んでも、
次の生に引き継がれます。
なぜ男に生まれたか、
なぜ昭和に生まれたのか、
なぜ日本に生まれたのか……?
これらは結果ですが、その原因は、
生まれない前の自分の業(過去世のやった行為)にあったわけです。
蒔かぬ種は生えません。
蒔いた種は必ず生えます。
因果の道理には、少しの狂いもありません。
「これくらい」と思ってやったちょっとの種まきも、
必ずやがて結果を開くときがきます。
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ぴょんたの
ひまわり日記
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