第33回京都賞記念講演会
1. 先端技術部門「トランジスタと歩んだ半世紀」
三村 髙志(半導体工学者)
2. 基礎科学部門「マジカル・ミステリー・ツアー:物理学・応用数学から植物生理学へ」
グレアム・ファーカー(植物生理学者)
3. 思想・芸術部門「思い通りの人生/思いがけない人生」
リチャード・タラスキン(音楽家)
【日時】
2017年11月11日(土) 13:00~16:30
【会場】
国立京都国際会館
京都賞の記念講演会を聞きに行った。
先端技術部門、基礎科学部門、思想・芸術部門の3つに分かれており、過去には先端技術部門では山中伸弥、思想・芸術部門ではメシアン、ルトスワフスキ、リゲティ、アーノンクール、ブーレーズらが受賞しているという、なかなかの大物ぞろいである。
先端技術部門の三村髙志と、基礎科学部門のグレアム・ファーカーの講演もなかなか面白かったが、ここでは詳細は割愛する。
思想・芸術部門の、リチャード・タラスキン。
大物音楽学者である彼の講演を聞く、というのが今回の私の目的だった。
上述のように、作曲家や演奏家が受賞することはこれまでにもあったが、音楽学者が受賞するのは今回が初めてとのことである。
タラスキンは、1945年生まれの、米国の音楽学者。
講演プログラムに書かれた紹介文を、ここに引用したい。
リチャード・タラスキン博士は、古楽の演奏、研究から出発し、近代ロシア音楽に関する画期的かつ重要な研究を行い、さらに大部の西洋音楽史を発表して、読者を啓発し続けてきた音楽学者、批評家である。
コロンビア大学でロシア語を、そして大学院では西洋音楽史を中心に音楽学を専攻し、歴史的音楽学で博士号を取得後、同大学に奉職した。1980年代を中心に『ニューヨーク・タイムズ』紙をはじめとする新聞や論文などで展開した主張は、同時代の古楽演奏が、しばしばその拠り所とする「真正性(オーセンティシティー)」にではなく、むしろ20世紀後半の美学を反映しているという刺激的な立論で、それは、その後の古楽演奏に有形無形の影響を及ぼし、現代に到っている。
ロシア音楽研究においても強い影響力を持っている。ロシアのオペラや、作曲家のムソルグスキー、ストラヴィンスキーなどについての研究は、民俗学をはじめとする周辺情報を徹底的に渉猟しながら、作品自体にも深く斬りこむ画期的な手法によって作曲家像を塗り替え、音楽学研究の方法論自体を更新した。…(以下略)
要は、古楽研究・ロシア音楽研究を通じて、一次資料の記述的な研究に終始し「作曲家神話」から抜け出せていなかった音楽学に、「ニュー・ミュージコロジー」(新音楽学)という新たな概念を取り入れ、より高次の文化的・社会的観点から批評するということを始めた一人である。
私のおおまかな理解では
・戦前の音楽学
主観的、観念的な研究。
「神話」(固定観念)に基づく(「バッハは生涯のクライマックスでルター派のコラール・カンタータに到達した」「19世紀に拡張し続けた調性音楽が、20世紀に至り崩壊したのは必然だった」「シェーンベルクは正統なドイツ音楽の系譜を受け継いだ」等々)。
・戦後の音楽学
一次資料至上主義(紙の質や筆跡などの細かな研究)。
科学的になったが、厳密に一次資料から言えることしか結論しないため、「神話」からの脱却には至らない。
・ニュー・ミュージコロジー
一次資料のみにこだわらず、文化論や社会論を絡めて、「神話」に対し何らかの批評を行う(「バッハは早くからルター派と距離を置いていた」「調性音楽は崩壊したわけではなく、崩壊させた人もいたというだけ」「十二音音楽の正統性は、シェーンベルク本人やその後続の作曲家・音楽学者が主張したのみ」等々)。
といったところか(間違っていたらすみません)。
無批判に特定のイデオロギーに基づいていた「音楽学」を、(一次資料が完全でなかったとしても)より相対的にとらえようとするのが、ニュー・ミュージコロジーだと思われる。
さて、前置きが長くなったが、今回のタラスキンの講演の概要を書きたい。
①彼は幸運と偶然に導かれて現在の立場に至った。
・生まれも育ちも米国だが、父がラトヴィア、母がウクライナ出身であり、親戚がソ連にいた。親戚は死んだと伝えられていたのだが、父(か誰か)が仕事でモスクワに行ったときに偶然ばったり会った。そこから交流が始まり、文通するために大学でロシア語を専攻した。これがなければロシア音楽をやることもなかったはず。
・大学院で作曲と音楽学を専攻したが、ソ連の親戚が帝政ロシアの音楽学者スターソフの本を送ってくれたので、お礼を言いに行きたくて結局音楽学のほうを選び、ソ連に留学した。この本がなければ作曲のほうに進んでいたかも。
・留学は19世紀ロシアのオペラについての研究枠だったが、当時米国ではルネサンスやバロック期の研究が主で、ロマン派や現代音楽の研究はばかにされた。皆と同じルネサンスを研究していたら成功はしなかったはず。
・留学前、ラングという大御所の先生に「ヴィオラ・ダ・ガンバ」を研究しろといわれ、研究していたらハマってしまい、ガンバ奏者になろうとした。かなりうまくなり、ニューヨーク・プロ・ムジカというプロの古楽団体から1名のみ応募があって、友人とともに最後の2人まで残ったが、結局友人が採用され、タラスキンは落ちた。人生で一番悲しかった。仕方なくソ連へ留学したのだが、もしこのとき受かっていたら音楽学はやっていなかった。さらに、この10年後にニューヨーク・プロ・ムジカは解散し、上記の友人は路頭に迷った。
・留学から帰ってきてどうにか大学には戻れたものの、特に成功していたわけではなく、続けられるか分からなかった。ある日レストランで朝食を摂っていると、たまたま知り合いに会って、それが縁で雑誌に文章を掲載できた。それがもとで少しずつ知名度も上がり、ついにはニューヨーク・タイムズに定期的に寄稿できるようになった。このとき別のレストランで朝食を摂っていたら、今の彼はなかった。
・タラスキンは古楽演奏の「真正性」に疑問を突きつける、という研究で著名になったのだが、これは「音楽学研究」と「古楽演奏」という2つのことをやっていたからこそ可能だった。もし大学院でガンバの演奏に熱中していなかったら、またもし音楽学の道へ進んでいなかったら、今の彼はなかった。
・ストラヴィンスキーの研究をしていた彼だが、ストラヴィンスキーの自筆譜は親族の誰が所有すべきか裁判沙汰になっていて、研究者が見られる状況になかった。ある日、元教え子から電話があり、「今たまたま図書館で働いているのですが、裁判中なのでストラヴィンスキーの自筆譜が図書館管理になっていて、誰でも見られる状態です」とのことだった。裁判が落ち着くまでの10ヶ月間、たまたま1年の研究休暇を取ったところだったタラスキンは毎日図書館に通い詰め、ストラヴィンスキーの自筆譜を手に取ってじっくり研究できた。裁判後、自筆譜はスイスのパウル・ザッハー財団に保管されることになり、現在でも自由に触れることはできなくなっている。
②このように、仕事で実績を残すには「適性」「野心」のみならず、「機会」(運)も必要である。「機会」は偶然のたまものであり、誰にも支配することはできない。
音楽の歴史だって同じで、人はよく作曲家の才能だとかインスピレーションだとか感受性だとかにロマンティシズムを求めがちだけれども、そういったいわゆる「適性」だけでなく、「野心」(作曲家自身やその後続の人たちの戦略)、また「機会」(偶然性、その時代の環境や状況など)、これらをすべて勘案しなければ、正しい現実は分からない。
③今回、音楽学者として初めて京都賞を受賞できたのは大変嬉しい。
音楽学者は、ともすると軽視、軽蔑されやすい。
シベリウスは、「批評家で銅像に値する人は一人もない」と言った。
しかし、それよりももっと昔、6世紀のイタリアの哲学者ボエティウスは、「演奏家」は技術面しか気にしないため底辺の存在、「作曲家」はそれよりは上だが感性のみによるため中間の存在、「音楽学者」は理論や法則など全て把握するため頂点の存在、と言った。
つまり、音楽学者の地位はずっと低かったわけではなく、現在の地位は相対的なものである。
今回の受賞を機に、音楽学が再評価されることを願う。
といった感じの講演だった。
私には大変面白かったので、忘備録的にと思い、つい長々と書いてしまった。
今回は一般向けの講演だったが、翌11月12日にはワークショップでより専門的な話があるという。
他の2部門のワークショップは同じく京都国際会館で行われるのに、このタラスキンのワークショップだけ東京藝大で行われるとのこと。
「京都賞」なのに…。
私には大変残念だが、まぁ京都でやっても人が集まらないということか。
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