京都市交響楽団 第610回定期演奏会
【日時】
2017年3月25日(土) 15:30 開演
【会場】
京都コンサートホール 大ホール
【演奏】
指揮:広上 淳一(常任指揮者兼ミュージック・アドヴァイザー)
独唱:髙橋 絵理(ソプラノⅠ)
田崎 尚美(ソプラノⅡ)
石橋 栄実(ソプラノⅢ)
清水 華澄(アルトⅠ)
富岡 明子(アルトⅡ)
福井 敬(テノール)
小森 輝彦(バリトン)
ジョン・ハオ(バス)
合唱指揮:小玉 晃、浅井 隆仁
合唱:京響コーラス、京都府合唱連盟、京都市少年合唱団 ほか
管弦楽:京都市交響楽団
(コンサートマスター:渡邊 穣)
【プログラム】
マーラー:交響曲第8番 変ホ長調 「千人の交響曲」
マーラーの、交響曲第8番。
あまりにも壮大かつ大規模な曲であり、マーラーの他の作品に比べ内面からの慟哭のようなものがあまり感じられない気がして、これまで第9番や「大地の歌」ほどには聴いてこなかった。
聴くとすると、ごてごてした厚化粧の演奏ではなく、クリアな解釈で曲の透明性を浮き立たせたケント・ナガノ/ベルリン・ドイツ響盤(NML/Apple Music)が好きで、よく選んでいた。
今回、京響の定期演奏会でこの曲をやるというので、聴きに行ってみた。
聴いてみて思ったのは、こういう曲は生演奏で聴くと全然違う、ということである。
上記ナガノ盤は比較的新しい録音で、音質もかなり良いと思うのだが、それでもやはり違うと感じた。
ホールを揺るがすようなフォルティッシモ(強音)から、ささやくようなピアニッシモ(弱音)まで、広いダイナミックレンジのどの段階においても音楽が生き生きと充実して聴こえる。
録音だと、こうはいかない(高級なオーディオ機器・オーディオルームを持っていればまた別なのかもしれないけれども)。
指揮は、広上淳一。
とても良かったと思う。
彼の演奏は、これまであまり聴いてこず(初めてではないが)、その特徴はよく知らないのだけれども、今回聴く限りでは、彼はコケオドシの大音響で攻めるタイプではないようである。
この曲は、冒頭からオルガンが大きく分厚いトニカの和音(主和音)を奏し、一斉に合唱が「Veni, veni, creator spiritus!」(来たれ、創造主たる精霊よ!)と叫ぶように第1主題を歌う。
ここは、広上淳一の指揮だとがなり立てることなく、まだまだ余裕を残したようなフォルテであり、迫力はありながらもむしろ柔らかな感じさえある。
ひたすら圧倒されるというよりは、むしろそのフォルテの美しさに聴き入る、といった感じになる。
そして、第2主題風の「Imple superna gratia」(天の恩寵で満たしてください)の部分では、各独唱の加わったアンサンブルを柔らかく、美しく響かせ、聴き手の心を打つ。
こういった、弱音の部分をかなり大切にしているような印象を受けた。
その分、クライマックスとなるような箇所では、冒頭のフォルテでも余裕を持たせていただけあって、ここぞとばかりに大きな迫力を作り出すこととなる。
こういったメリハリが、かなりきいていると思った。
上記ナガノ盤のような透明感はないけれども、ずっしりぎっしり詰まったような響きにはならず、マーラーの音楽の美しさをすんなり味わえるような、そんな演奏だった。
それにしても、この人数。
さすがに千人はいないかもしれないが、これほど多くの人が立ち並んだ舞台を見るだけでも、圧巻である。
人の配置もかなりの広範囲にわたっており、ともすると時間差が生じて、アンサンブルがばらばらになってしまってもおかしくない。
そんな中、広上淳一はぴょんぴょん飛び跳ねながら(飛び跳ねるように、ではなく本当に飛び跳ねて)、遠くの団員にも見やすいように指揮をして、あれだけの多人数をうまく統制していた。
テンポの加速も減速も自在に行っており、あれだけの人数の演奏をうまくドライブする様を見るのは壮観だった。
壮麗な第1部が終わると、ゆったりとした長大な第2部となる。
ゲーテの「ファウスト」最終場を、そのまま歌詞にしている。
ゆったりと同じような調子で1時間近くも続くこの第2部は、これまでやや敬遠しがちだったが、生演奏だとその音楽の美しさが分かりやすく、じっくりと楽しむことができた。
合唱も、少年合唱も、美しい演奏を聴かせてくれる。
どんよりとした曇り空のような音楽が延々続くが、その後グレートヒェン(ソプラノⅡ)による清冽な歌になり、第1部の第2主題風のメロディが回帰する。
ここは、ぱっと花が開くような美しさがある。
そして、舞台後方に待機した、栄光の聖母(ソプラノⅢ)による短い歌になる。
これも、大変美しかった。
マリアを崇める博士(テノール)、合唱と続いたのち、オーケストラによる間奏を経て、いよいよ最後の「神秘の合唱」となる。
ここの、最弱音のささやくような合唱は、録音で聴くとどうしても小さすぎるのだが、生演奏だと大きな説得力をもって、聴き手の耳に届く。
ここでのマーラーの和声進行は、同時代に作曲されたR.シュトラウスの「ばらの騎士」などにも共通するような、大戦前夜のあの時期の独特の香りというか、爛熟しきった後期ロマン派の響きを持っている。
「19世紀」という名の果実が熟れに熟れて、枝から落ちてしまいそうな、そんな雰囲気がある。
マーラーでは「芸術家肌」を、R.シュトラウスでは「職人肌」をより強く感じる、という違いはあるけれども。
「永遠に女性的なるもの」(直訳では「永遠なる女性性」とでもいうべきか)を歌い上げるこの「神秘の合唱」は、マーラーがそれまで培ってきた音楽書法の結晶が聴かれる、と言っても言い過ぎではないだろう。
それも、マーラーにおいてよく聴かれるような苦悩や葛藤ではなく、天上的な安らぎのようなものを伴っている気がする。
交響曲第9番の終楽章の、ため息のようなあの美しいコーダ(結尾部)と比較しても、劣るものではないと今回感じたのだった。
そして、最後に第1部の第1主題が回帰して、オーケストラによる後奏でこの長大な曲は高らかに終わりを告げる。
この一連の、何とも表現しがたい感動的な流れを、広上淳一と京響、また独唱や合唱のメンバーたちは、自然な柔らかさをもって美しく表現してくれた。
最後の一音が大きく大きくクレッシェンドされたのち、一段と高く飛び跳ねた広上淳一の合図のもと、全トゥッティによる強音があれだけバシッとそろって曲を終えたのは、見事というほかなかった。
フライング気味だった叫ぶような歓声も、この素晴らしい演奏から受けた大きな感銘ゆえと私は信じている。
今回の公演は、今日も明日も完売だと聞いている。
実際には空席もあったけれども、両日とも完売というのは、やはりすごい。
マーラー自身による、1910年9月12日、13日に行われた歴史的な初演を想起させる。
この初演は、「ミュンヘン博覧会1910」と題された大規模な音楽祭の、メインイベントだったという。
12日と13日、両日ともに完売で、会場は新祝祭音楽堂(現在のドイツ博物館 交通館)、オーケストラはカイム管弦楽団(あるいはミュンヘン・コンツェルトフェライン管弦楽団)、観客には各国から錚々たる有名人が名を連ね、熱狂的な大成功をおさめたようである(Wikipediaおよび今回配布のプログラムより)。
いったい、どのような演奏だったのだろうか。
完璧主義ゆえに敵が多く、また指揮への高評価に比して作曲についてはなかなか評価されなかったマーラー。
そんなマーラーの死の前年についに訪れた、彼の才能にふさわしい栄光に思いを馳せながら、また彼のその後の交響曲(「大地の歌」や第9番)を彼自身は聴くことができなかったということを思いながら、私は今回の京響による第8番の演奏を聴き、その成功を喜んだのだった。
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