パドモア フェルナー 大阪公演 シューベルト 「美しき水車屋の娘」 | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

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クラシック音楽の鑑賞日記や雑記です。
“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

シューベルト こころの奥へ vol.5
歌曲集《美しき水車屋の娘》
マーク・パドモア&ティル・フェルナー

 

【日時】

2017年2月18日(土) 16時00分 開演

 

【会場】

いずみホール (大阪)

 

【演奏】

マーク・パドモア(テノール)
ティル・フェルナー(ピアノ)

 

【プログラム】

シューベルト:歌曲集 《美しき水車屋の娘》 op.25, D795

 

 

 

 

 

この演奏会は、私にとって特別なものとなった。

 

シューベルトの「美しき水車屋の娘」、これは私はCDでももう何年も聴いていなかった。

シューベルトの歌曲は大好きなのだが、彼には「楽に寄す」「春に」「シルヴィアに」「ミューズの子」といった珠玉の名品というほかない傑作が数多くあり、聴くとなるとそれらをついつい選んでしまう。

連作歌曲となると、まとめて聴くのに時間がかかるということと、かといって一曲ずつ取り出すとなると前述のような曲ほどに目立ったものはないということで、かなり長いこと遠ざかってしまっていたのだった。

しかし、今回の演奏会でかなり久々にこの連作歌曲集を聴いてみると、我ながらうろたえるほど懐かしくなってしまった。

つい忘れていたのだが、私は中学生くらいの頃に、この歌曲集のCDをよく聴いていたのだった。

あの頃の私は、昨日の演奏会で聴いたようなショスタコーヴィチの大交響曲などは一切聴いておらず、モーツァルトの協奏曲とか室内楽とか、あるいはベートーヴェンやシューベルトの後期ピアノ・ソナタとか、そういった曲ばかり聴いていた。

もちろんお金はなかったから、図書館で色々なCDを片っ端から借りては聴いていた。

シューベルトの連作歌曲集を通して聴くための時間は、あの頃はまだたっぷりあった。

「冬の旅」ももちろん好きだったが、あまりに暗く孤独なため、むしろ「美しき水車屋の娘」のほうをよく聴いていたのだった。

それも、主人公の粉ひき職人がまだ幸せだった、曲集の前半部分を、とりわけよく聴いていた。

今回の演奏会で、そのことをはっきりと思い出したのだった。

特に、第7曲「待ちきれぬ思い」、そして第11曲「ぼくのもの!」、これらの何と懐かしいことだろう!

聴いていて、思わず感極まってしまった。

この第11曲、主人公の恋の成就したまさにその瞬間の歌、その前奏に、シューベルトは何という音楽を書いたことだろう!

何の変哲もない前奏だが、主人公の浮き立った心が率直に表され、なおかつ、たった一瞬ながら短調へと翳ることで表現される繊細な感情、こういったものがほんの数小節の間にさりげなく生起して、心が乱されるほどの感銘を受けてしまった。

これほどの感銘には、おそらく前述のような個人的な懐かしさが大きく寄与しているだろう。

中学生の私にとって、恋などまだ憧れの対象でしかない遠い存在であり、そんな当時の私は、この曲集の中に幸福の絶頂の歌がこの第11曲ただ一つしかなく、次の第12曲からはもう不安な気持ちが顔をのぞかせていることに、不満を覚えていた。

もう2、3曲くらい、幸せいっぱいな曲があったっていいじゃないか、そんなことを考えていたのだった―。

 

マーク・パドモアの歌声は、さすがに美しいものであった。

弱音が、きわめて繊細に、まるでささやくように歌われる。

音程は、不安定になることもしばしばみられた。

この演奏会の後に、彼の同曲の録音(2009年収録)を聴いてみたが、こちらは音程がより安定している。

この違いは、彼の衰えによるものなのかどうなのか、私には分からない。

リートのコンサートを聴くのは、今回が私にとっておそらく初めてであるため、判断がつかないが、もしかしたらリートのリサイタルというものは、ベストの状態で行うことのできるセッション録音とは違い、このくらいの音程の不安定さは致し方ないのかもしれない。

その分、リサイタルならではと思われる、オペラティックと言っても良いような劇的な表現を聴くことができた。

また、彼の自然ながら雄弁な身振りも、詩の世界に聴き手を引き込むのに一役買っていた。

 

しかし、この演奏会でさらに素晴らしかったのは、ピアノのティル・フェルナーだった。

彼は、たった一音で抜群の存在感を示す、といったタイプのピアニストではない。

それに、ホールの残響のためもあり、最初はペダルが過多で細部が不明瞭になっている印象があった。

そのため、「いいピアニストだけど、少し地味かな」といった印象を、最初は持った。

しかし、少し聴き進めると、彼がホールに合わせてペダルの踏み方を調整したのか、あるいは聴いている私の耳が慣れたのか、不明瞭という印象はなくなった。

そしてそれからの、彼のピアノの素晴らしいこと!

上述の第7曲では、細かな和音のスタッカートがむらなくコントロールされ、主人公のはやる気持ちが繊細に表現されていた。

第8曲「朝のあいさつ」では、歌との掛け合いをする部分があるのだが(階名表記で「ミーーーーーレドシド」というふしを歌とピアノが交互に奏する)、ここでのたっぷりとした、それでいて自然でさりげないピアノの歌わせ方は、まさにシューベルトの「心の歌」の表現となっており、パドモアの歌を超えている、とさえ思った。

そして、第10曲「涙の雨」、ここでのピアノのあまりにも繊細な美しさ、心のひだの表現は、この曲集の演奏における一つのクライマックスを形作っている、と言っても過言ではないほどだった。

 

この後、上述の第11曲を挟んで、音楽は主人公とともにしだいに孤独を増していく。

恋人は心変わりして狩人のほうに行ってしまい、主人公は独りになる。

第18曲「しおれた花」では、きわめて簡素な伴奏の上に果てしない孤独が歌われるが、「もし彼女が私の墓の前で私が誠実だったことを思い出してくれるなら、しおれていた花たちはいっせいに開き、春が来るだろう」というような内容の後半部分では、突如として短調から長調へと変わり、ピアノの低音部に、まるでグリーグの「ペール・ギュント」組曲の終曲「ソルヴェイグの歌」を思わせるような、付点音型を含む美しいメロディが現れる。

この部分において、本当に雲間から光が差し込むかのような、その場の空気感が一気に変わるような、素晴らしい表現をフェルナーは聴かせてくれた。

それは、次の第19曲「粉ひきと小川」でも、全く同様であった。

こういった、短調から長調へ、またその逆に長調から短調への、突然の転調は、シューベルトが好んで用いた手法だが、それがこれほどまでに効果的に表現された例を、私は他に知らない。

この第19曲は、主人公と小川との対話形式となっているが、主人公による短調の歌から、小川による長調の歌へと移り変わるとき、フェルナーは(パドモアもだが)さりげなく、かつ劇的にがらりと空気を変え、聴き手は主人公とともに慰められるのである。

そして、終曲「小川の子守歌」。

これはもう、憩いに満ち満ちた音楽である。

小川は、主人公を優しく包み、外界から守る。

この終曲は、比較的シンプルな有節歌曲(1番、2番、…と異なる歌詞で、同じメロディを繰り返し歌うような歌曲)だが、実に効果的な転調がさりげなく含まれており、またシューベルトのピアノ・ソナタ第13番イ長調の第2楽章を思わせるような、静かな和音の連打も出てくる。

この一つ一つの転調で、小川の水の色合いが涼やかになったり、光が反射して鮮やかになったり、といった変化を連想させるような、細やかとしか言いようのない絶妙な表現の変化を、フェルナーは行う。

そして彼は、転調ごとのみならず、節ごとにも表現をがらりと変える。

かつての恋人を退ける節では、大きく豊かな表現で、主人公に憩いをもたらす節では、柔らかく繊細な表現で。

このような節ごとの表現の変化は、すでに第1曲「さすらい」にもみられていた。

この第1曲では、石臼の登場する節で、左手による低音部が硬く重い音で奏され、石臼を模しており、面白い表現だと思った。

しかし、それがこの終曲においては、なんと深く繊細な表情の変化になっていることだろう!

そして終節では、ペダルの響きもより深く、もやのかかったような幻想的な表現になり、歌とピアノは憩いの中で、空間に溶けていく…。

普段、終演後の拍手のタイミングに関してはそれほどこだわらない私だが、今回だけは、最後の一音の後にせめてもう少しだけでも余韻があってほしかったと残念に感じた、それほど繊細で幻想的な、完璧といっていい曲の閉じ方だったと思う。

 

上述のパドモア自身の同曲録音では、かのポール・ルイスがピアノ伴奏をしている。

ここでのルイスは実に素晴らしく、演奏のレベルとしては、今回の演奏会でのフェルナーに全くひけを取らないと言っていい。

しかし、あの何とも表現しがたい、精妙な空気感は、残念ながらこの録音からはほとんど伝わってこないのである。

これが、フェルナーの素晴らしさを表しているのか、それとも生演奏の素晴らしさを表しているのかは、私にはよく分からない。

とにかく私は、今回の演奏会を体験できたということに、深く感謝するのみである。

そして、いつかフェルナーの弾く、シューベルトの後期ピアノ・ソナタを聴く機会を持てることを願っている。

彼がピアノ・ソナタ第20番 D.959の終楽章を弾いたら、いったいどんな演奏になるのだろうか。

 

 


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