朝比奈茂吉   

 (嘉永4年(1851年)~ 明治27年(1894年)7月14日)

 

と、名前をあげても分からない人が多いと思います

表題の「鶴ヶ城を落とすな」は次の本からもじりました


 

「凌霜隊(りょうそうたい)は、慶応4年(1868)に

郡上藩の脱藩士によって組織された部隊

戊辰戦争において、幕府側に立って新政府軍と戦った

部隊で、その隊長が朝比奈茂吉です


 幕末の動乱期、郡上藩でも、勤王派、佐幕派に

分かれて激論が繰り広げられて、
藩は勤王に付くと決まったのです
しかし、徳川家譜代の家臣であった青山家では
佐幕の雰囲気も強く、特に江戸藩邸においては佐幕派が
多数を占め、脱藩して新政府側に抵抗しようとする

考えの者もいました

新政府軍が江戸に迫りつつあった慶応4年4月10日
(1868年5月2日)、江戸家老朝比奈藤兵衛の息子、

朝比奈茂吉(当時17歳)が隊長となり、江戸在番の
脱藩士45名による部隊を組織して、凌霜隊と名付けました
「凌霜」とは霜を凌いで咲く葉菊のような

不撓不屈の精神を表す言葉で、青山家の家紋である

青山葉菊に由来します

国家老鈴木兵左衛門・江戸家老朝比奈藤兵衛が

幕府側が勝利した際の事も考えて、

藩の存続をかけた二股的な戦略であったのでは


江戸城は無血開城となり、将軍徳川慶喜は謹慎の意を

示すため水戸へ出発します

スペンサー銃など新式の銃を装備していた凌霜隊は

人数で上回るものの装備で劣る新政府側の笠間藩

壬生藩の部隊を圧倒、旧幕府軍は新政府軍に勝利した(小山の戦い)。

 

旧幕府軍は今市に集結、日光での決戦を諦め、

会津へ向かうこととなり、凌霜隊も会津を目指した

 

閏4月7日(この頃は太陰暦を用いていたため、

この年は閏月があり4月が二回あった)、

凌霜隊は会津藩の指揮下に入り、以後高原宿、藤原宿の守備に就き

会津藩からは隊士に手当金が支給された

会津藩兵はそのまま若松へ向かい、残った凌霜隊ら124名が横川で守備についた

翌25日、攻め寄せた新政府軍と戦闘となり、戦況悪化のため撤退することとなった

28日、大内宿に到着、翌早朝から新政府軍と戦闘になるが、

会津側は敗北し、凌霜隊も大内峠に撤退した
鶴ヶ城を攻囲する新政府軍の隙をついて、

4日に若松城下に入り、秋月悌次郎宅を拠点とする

(会津まつり「会津藩公行列」の朝比奈茂吉、もちろん本人ではない)

 

先行していた朝比奈隊長ら一部の隊員は既に

入城していたため、6日、凌霜隊全員が鶴ヶ城に入城

日向内記の指揮下に入って白虎士中合同隊と共に

西出丸の守備に就いた

その後、会津藩兵らと共に攻め寄せる新政府軍と

激戦を繰り広げたが、明治元年(1868)9月22日、

会津藩が降伏する

凌霜隊もこれに従って新政府軍に降伏し、

城を出て猪苗代で謹慎した

戦後明治元年10月12日、投降した凌霜隊員らは

郡上藩預けと決し、郡上八幡へ護送されることとなった。
 しかし、江戸から伊勢へ向かう途中、乗船した船が難破し

贄浦に上陸、11月17日、元凌霜隊員35名は郡上八幡城下に到着した


藩では、元隊士を脱藩の罪人として扱い、赤谷の揚屋へ監禁した

赤谷揚屋は湿地に位置し、湿気が多く風通しも日当たりも悪く

病気になる者も多かったため、場所の変更を何度も求めたが

却下され続け、明治2年5月になって慈恩禅寺の住職らを

中心とする城下寺僧の嘆願により城下の長敬寺に移され

元隊員らの苦難は軽減された

藩では当初、元隊員らを処刑するつもりだったが、

9月、新政府の命令により自宅謹慎となり、

翌明治3年2月19日(1870年3月20日)、謹慎も解かれ

、赦免された 
しかし、罪人として処罰された元隊員達に対して

周囲の態度は冷たく、元隊士らの多くは郡上八幡を離れた

写真は飯盛山にある郡上藩凌霜隊の碑

右画が広場で広場のすぐ隣にある