なかなかタブーなところではあるが、読者のほとんどいないブログだからこそ書こうと思う。不倫に対する自分の考え。
動物について、考えてみたいと思う。動物は一般に貞操観念などなく(あるものもいるかもしれないが、それは置いておいて。)子孫を残すために、見境なく、異性に手を出す。これは種を残すための防衛本能といえよう。動物という枠で見れば、いわゆる不倫は問題なかろう。
さて、人間はどうなのか。人間もサル目のヒト科というグループに属する、広義の意味での動物だ。一般的に、ヒトとそのほかの動物とを区別する基準は理性であると考えられている。理性とは人間が人間としてのほかの動物の群とはより高次な「社会」を形成するために必要なものであると自分は考えている。もっと詳しくいうと理性とは社会を破綻させないために本能をコントロールするための役割を持つ。
そこには倫理やら、道徳やらが派生してくる。人と人とが協力し合い、社会を発展するには、動物であるヒトがもつ本能をおさえていかなければならない。本能をむき出しにしてしまうと社会は破綻する。例えば闘争本能をむき出しにすると、平和な社会は維持など到底できない。
さて、種を残すためにとにかく多くの数の異性と交わるという防衛本能もかくして、理性のもとに押さえつけられたのである。
なぜ押さえつけられなければならないのか。個人的な考えによると、それは家族という社会があるからである。家族はただ群をなすだけでなく、「血」によるつながりを大事にしているのだと考えられる。二つの個体とその血を分けた子どもで構成されるこの社会は、最小限なものであり、もっとも閉鎖性の高いものであると思う。例えば、日本にアメリカ人が観光に来たり移住してもいまや、珍しいことではない。しかし、家族のなかになにやら見知らぬものがいきなりきて居座ったら警戒したり、不快感を感じたりするのは、どの時代でもそうであろう。
さて、もし夫のほうが別の家族の知らない女性と、関係をもったらどうなるのか。
おそらく、その二人の関係には擬似的な家族としての関係が生まれている。擬似的な家族としたのは、その夫のほうにはもとの家族がいてそこからは離脱していなく、夫以外の家族はその相手の女性を承認していないところから、一つの家族としての共同体は形成していないと解釈するからである。
この擬似的な家族という関係が、夫の妻や子どもにとっての危機である。一人の人間が複数の社会の構成員になることはほとんど不可能だ。例えば日本国民でありながらアメリカ国民になるということは例外を除けば不可能だし、東京都民が大阪府民に同時になれるというのも不可能だ。それと同じように、親戚関係や婚姻関係などがない限り、人は複数の家族の構成員にはなれないのである。なので、夫は妻子を捨てるか、それとも不倫相手を捨てるかである。どちらかの社会が破綻する。
そう、不倫というのは動物的な行為としては当たり前のことだが、社会を形成し維持するという側面から見ると、危機的なことである。だから、人間は理性によって種の保存のための防衛本能が過剰にならないように抑えられているのであると思う。
しかし、最近では不倫は横行している。(今に始まった事ではないが。)
自分もされた経験はあるが、見ていて思ったのが、これは本能からくるものでなく、理性からくるもの、文化性のあるものなのだということだ。
人が不倫をする目的は種の保存ではない。
安い言葉になってしまうが、刺激のなくなった日常からの脱却であったり、自分の家族という社会を構成している者への不満(結婚してないカップルであるとその相手への不満)からであったりする。ひとは理性的に、不倫をするのである。それは本能に裏付けられた行動だというのが多数派であるが、得てして不倫したものは相手との子どもを望まないことが多い(相手が望んでいる場合もあるが)。そういうことから、本能によるものだとは個人的には考えにくい。
文化として不倫をとらえると、それは嗜好であり、もっと乱暴な言い方をすると趣味とも言える。よく、一回不倫したひとは何度でも不倫するというが(自分の周りにもそういう人間は一人いる。)、まさに不倫はアルコールやニコチンのような嗜好であり、音楽や、スポーツなどのような趣味であるのであるということがそのことを裏付けられよう。だから、浮気性な人間はいつまでたっても直らないのだ。自分の趣味を容易に変えられるようなひとは少ないからだ。あるいは煙草を嗜好として嗜むものにそれをやめろといってもなかなかやめられないのと一緒である。
あながち、あの、スキャンダル俳優がいっていた「不倫は文化」という言葉は真理を捉えていたのかもしれない。
しかし、それは一つの社会を壊し、人の信頼というものを踏みつける、反理性的で人間的でなく、本能の色が濃く、獣や家畜とやることは変わらないような趣味、嗜好であると心得る必要があろう。