今日は、ちょっと重たい話。
重たい話の苦手な方、宗教論一家言有する方、攻撃的な方は、恐縮ですがスルーにてお願い致します。

先日、アナウンサーの川田亜子さんが亡くなったニュース。
わたくしは、個人的に全く面識が無いが、面識、交流のある友人が何人かおり。
みな一様にショックを受けていた。

別れとは。いつでも、誰でも、寂しいものであり、受け入れがたいものでもある。

訃報は、数秒に一度。世界中を駆け巡る。

若くして隣人に殺められた女性、予告し自ら命を絶ったタレント、往年の俳優。政治、宗教の対立。
地震や災害、マラリア、飢えにより命を落とす人々、この世の光を見る前、見てすぐに消えるちいさな命。
ひとり、誰に知られることも無く。ひっそりと命の灯を消す人々。

著名無名、知己を問わず。報道にのぼらない多くの場所でも。常に人の命は消えてゆく。

各々、その重さと価値には、一部の差異も無い。

ただ、そこには。別れがあるだけ。

かたちあるものは、必ずかたちを失い。命あるものは、必ず終わる。出逢いがあるように、別れがある。

だからこそ、その有限に美を見出し、出逢いを愛で。今を生きる。
永遠に命があるのならば。恋愛も仕事も、何もかも。「今」である必要は無く。先送りにするかもしれない。


ものすごく、語弊はあるが。私は、命には定めがあると信じている種である。

今までにも言及したが。母の生家はお寺。縁者の半分は僧侶であり。折々幾度と無く、御仏の話を聞いた。
私自身も学生時代のほぼ全てにおいて、朝起きてから寝るまで神に感謝の祈りを唱える日々を過ごした。

よって。おそらくは、一般的な日本人のアニミズムより、宗教色や神の意識が強いのだろうは知りつつ。
生あるもの、すべて神から与えられしものであると、考えている。
生を受けるのも、その長さも。終わりすらも。全ては、定められしものではないかと考える。

その密度を、どれだけ濃いものにするか。どれだけ、昇華するか。それが、個々に与えられた裁量。
死は、善悪の次元に非ず。ただの必然。否定はできない。必ず、誰の上にも平等に与えられしもの。

誰かを失った時。それが近しい人であったとき。

人は、「もう少しああすればよかった」「こうしたら、少し何かが変わっていたのではないか」
そんな自責の念に駆られることがある。

でも、それはもしかしたら。
「何かが出来たはず」という、過大評価。
自らの裁量に対する、驕りでしかないのかもしれない。

そもそも。虫や動物はエゴのために殺生することが容認され
人は罪として裁かれ、不徳であるとされる。
その考え方自体が、エゴイズムなのではないか。
と感じることもある。

自らはおろか、誰かの命をコントロールすることなど。
実は誰にも出来ないはずだと。
ただ、それは。自分に与えられた使命。役割だっただけなのかもしれない。
命の長さは。この世に生を受けた時から。神が定めしものと思っている。それは、自らに与えられた時間。
有限の、時間。

身近な大切な、愛する人を失った方にとっては、なんとも残酷な話であるのかもしれない。

でも、わたしも。

自分の愛する人を失い、大きな失望感と喪失感を抱いた時、そう、切々と、とうてくれた人がいた。

だから。今の私にできること。与えられた命と、与えられた今を。大切にするしかないのだと思う。
そして愛すること。深く、深く。失敗も、裏切りも、自らが傷つくことを恐れずに。
人為で、努力で変えることが出来るのは。その有限の、与えられし時間の密度だけ。
どれだけ、濃密で深く。失敗を恐れず、愛深く費やすことが出来るか。

幸せとは、そういうことなのでは、ないのだろうか。茫漠としか、見えないけれど。